ついに、幽冥なる原初の主は倒された。  この惑星の創世と共に生まれ、世界樹によって封じられてきた永遠の闇……その驚異を、人類は遂に打ち破ったのだ。  そして今、ニカノールは仲間たちとフロアの奥へと進んだ。  そこには、星の海が静かに凪いでいた。  広がる絶景を前に、不意に少女たちが走り出す。 「すげえぜ! こりゃ……おい、チェル!」 「うんっ! もっと近くで見ようよ、マキちゃん!」 「あっ、こら! 二人共、走らないで! もうっ」  ラチェルタとマキシア、そして止めようとしたレヴィールまでも走り出す。  あれだけの戦いで全力を出し切り、限界を超えて戦ったのに、三人の足取りは軽い。疲労困憊の乙女たちをはしゃがせるほどに、目の前の光景は荘厳にして流麗、途方もなくスケールの大きな星空だった。  だが、三人娘は少しいった先で「あぎゃっ!?」「げふぁ!?」「ちょ、ちょっとぉ!?」と、悲鳴をあげた。どうやら、見えない壁があるらしい。  自然とニカノールも、頬が綻ぶ。  だが、そんな彼の隣から、ゆらりと細い影が歩み出る。 「……ノァン、星の海だ。地上で見上げる空じゃなくて、これは海というものだと思う」  両手に小さなノァンを抱き上げたまま、スーリャが立ち尽くしていた。  その横顔はもう、表情を失っている。  以前から感情を顔に出さない鉄面皮だが、今は表情に出すべきものが全て喪失したように見える。呆然としたまま、スーリャは動かないノァンに語り掛けていた。  振り返ったラチェルタたちも、言葉を失う。  スーリャの声は、囁くように小さくて、どこか優しげだった。 「ノァン、私は海を見たことがないんだ。いつか……二人で行けたらいいなと、思って、いた。けど……だけど」  ニカノールも心の中に言葉を探した。  友はもう、戻らない。何故なら以前、一度に大量の死霊を肉体に招き入れて戦ったからだ。もともと七人の死体に七つの怨念が封じられていた、それが死体人形のノァンだったのだ。  アンデッドキングとの死闘の中、非業の死を遂げた魂は全て、解き放たれた。  それでも、フォリスが生み出したノァンという人格は残り、普段通りに冒険を満喫していたのである。そして、最後の戦いで仲間のために極限の力を出し切ってしまったのだ。 「ニカ様、ノァン様は」  隣でギュムと、ワシリーサが腕にしがみついてくる。  そんな彼女と、今は沈黙の中で体温を交わすことしかできない。  遅れてやってきたフォリスを振り返れば、彼は黙って首を横に振るだけだった。  ノァンは最後、一瞬だけ力を取り戻した。  常人を凌駕する鬼神の如き力を振り絞り、乾坤一擲の一撃を放ったのだ。  それは、ニカノールが祈るように飛ばした死霊の力である。 「フォス、あの時僕には確信があった。もっと、多くの死霊を込め直せば」 「いや……俺たち屍術師が使役する死霊は、あくまで霊魂として安定化した死者の魂だ。いわば、既に死霊として完成されたもの……死の直後に滞留している怨念とも違うし、まして生きた人間の魂になどなりえない」 「身体を動かすことは出来ても、心を取り戻させることはできない、か」 「ああ。だが、ニカ。お前には感謝してる。本当は、俺がやらねばならないことだった」 「いや、それこそ辛いよ」  世界樹の迷宮を巡る冒険は、終わった。  アルコンの願いによって、ニカノールは予期せぬ不死者へとなり、この地に心臓を持ち去られたのだ。  それは、繰り返し敗北する中で学び、人類の最前線で戦うため。  大いなる闇を超える試練の、その水先案内としてニカノールは選ばれたのだ。  そして、その使命を果たした……一人の愛すべき友人の眠りと共に。  ふと、不意に背後で声がして、誰もが一斉に振り返る。 「見事だ、ネヴァモア、そしてトライマーチ。両ギルドの働きによって、この星は新たなステージへと進むだろう」  そこには、ぼんやりと光を放つアルコンの姿があった。  彼の頭部には、髪とも角とも言えぬ輝きが広がっている。まるで、宝石の森のようだ。彼女は普段と同じく無表情だったが、その目には深い悲しみが見て取れた。 「冒険者たちよ、私の願いは果たされた。ならば、私もその義務を果たそう。即ち――汝らも聞いたことがあるだろう。世界樹の頂に達した者は、どんな望みも叶うと」  ビクリ! と、スーリャが身を震わせた。  彼女は冷たくなったノァンを抱き締めたまま、アルコンに詰め寄った。 「頼む、アルコン! ノァン助けてくれ! 私は、またノァンの笑顔に触れたい……ノァンは、私が初めてみつけた光なんだ」 「半人半魔の闇狩人、スーリャ。残念だが、汝の望みを叶えることはできない」 「何故だ! どうして……どんな望みも叶うと、今!」 「生ある限り、死は避けられない。それは、死体を紡いだ虚ろなる少女であっても、同じ。この条理を否定することは、彼女の生きた時間、生そのものを否定することになってしまう」 「うっ、うう……嫌だ! 私は、嫌だ! 難しい話はわからない、けど! 私はもっと、ノァンと一緒にいたい……ノァンともっと、生きてたい」  悲痛な叫びに、ニカノールはハッとさせられる。  そして、すぐに思いついたことを実行に移した。 「アルコン、叶える望みはともかく……僕は君の望みを叶えた。だから、まずは僕の心臓を返してもらえるだろうか」 「勿論だとも、ニカノール……死の後先を歩く者よ。見事だった。そして……許してほしい。私はあまりにも無力で、選択肢がなさすぎた」 「いや、感謝してるよ。ノァンもきっと、ありがとうって言うよ」 「……そうだろうか」 「そうさ、ノァンはそういう子なんだ。待ってて、それを今ちょっと証明してみようと思う」  アルコンが手をかざすと、どこからともなく暗い光が空中に出現した。それは、熱く脈打つニカノールの心臓だ。古い言い伝えにある、卵の中の針と例えられる儀式の産物である。  それを受け取ったニカノールは、次の瞬間……全員が驚きに目を丸くする中、静かに語りかけた。 「さっき、僕は言ったよ? もう起きて、って……さ、ノァン。僕はね、今はもうわかったんだ。これからも不死者として生きるし、ワーシャと生きてく。だから――」  ――これを預かってほしいんだ。  そう言って、ニカノールはノァンの胸に自らの心臓をかざした。  驚くスーリャの腕の中で、ゆっくりと明滅する心臓が薄れて消える。  次の瞬間、奇跡が起こった。 「ん……なんだか騒がしいのです。ふぁ? スゥ、どしたですか? 泣いてるです!」  ノァンが目を開けた。  そして、自分の頬に落ちる大粒の涙に驚き身を起こす。  そっと、小さな彼女を地に立たせると、そのままスーリャは崩れ落ちるように抱き締めた。ノァンの胸に顔を埋め、幼子のように泣きじゃくる。  ようやく、仲間の誰もが心からの笑顔になった。  驚いたように瞬きを繰り返していたアルコンも、フムと唸る。 「あの恐るべき闇を打ち砕く時、人類には新たな世界が開かれる……私はそう思っていた。それは間違いではなかったのだな。想像を超える結果だ、ニカノール」 「世界で一番安全な場所だからね、ノァンの中は。これでいいんだ、これがいい。僕にとってもみんなにとっても、ノァンは大事な人だから」  こうして、一つの旅が終わった。  死体を継ぎ接ぎして生まれた少女は、新しい命を授かった。そして、古き一族の家に生まれた青年は今、死を超越した人間としての新たな一歩を踏み出そうとしているのだった。