その日、アイオリスの街を歓喜の声が包んだ。日が暮れてもずっと、祝祭の熱狂が満ちたままだ。  ついに、世界樹の迷宮は踏破された。  アルカディア大陸はこれより、未知と神秘の世界を内包したまま、新たな未来へと歩みだす。あらゆる困難を克服する、強い意思の力を糧にして。  具体的になにかが変わる訳ではない。  ただ、ラチェルタは感じていた……新たな道が開かれたような気がした。それを今、ニカノールたちが指し示しているのだ。 「お腹いっぱいだあ……なんか、元気出てきたかも!」  宿の中は、どこもかしこもドンチャン騒ぎだ。  音楽と歌とが絶え間なく響き渡り、酒と料理は尽きることなく運ばれてくる。先程チラリと見たが、ニカノールには評議会や冒険者ギルド、その他多くの組織からひっきりなしに祝いの使者が来てる。  英雄になるのも大変だなあ、と思うラチェルタだった。  それで今、彼女はバルコニーに出て休憩中である。 「ふいー、風が気持いいー」  夜空には、満天の星たちが輝いている。  その全てが、昨日の夜よりも眩しく見えた。  でも、ラチェルタは今でも思い出して恐ろしくなる。幽冥なる原初の主は、強敵だった。思えば自分も、随分と無茶をしたものだと思う。それくらいはラチェルタでも、わかる。  だが、自分の中から込み上げる衝動には勝てなかった。  負けながら少しずつ、対策を積み上げ冒険者全員で戦う。  自分だって、その一助になれると思ったからだ。  ただ、ふと思い出す都度、全身が震えてくる。  優しい声が響いたのは、そんな時だった。 「チェル、寒いのかい? あまり身体を冷やさないようにね」  振り返ると、大好きな父親が微笑んでいた。  ラチェルタの父、クラックスはいつも見守ってくれている。どこに行っても夜空に浮かぶお月さまのようだ。時々母のアルマナが心配するくらい、過保護な時もある。  でも、逆の時もあって、両親は二人共仲良し家族だ。 「大丈夫だよ、ちょっと休憩。夜風に当たってたんだ……へっぷし!」 「ふふ、夜ともなると少し肌寒いね。中に入るかい?」 「んーん、も少しここにいる。ねね、パパッ! あれやって、あれ!」 「ん、そうだなあ。随分久しぶりな気もするけど。チェルは相変わらず甘えん坊だね」  そうは言うが、ニコリと笑ってクラックスの輪郭が解ける。  クラックスは、遠い国で生まれた錬金生物だという。本来の使用目的は、破壊工作や用心暗殺だ。そのためだけに造られた、言ってみれば生物兵器である。  だが、彼の兄はそう決めつけられた自分の運命を乗り越えた。  その時、少し遅れてクラックスも自分自身に向き合ったのである。  過ちは沢山あったし、間違いも起こした。  けど、ラチェルタにとっては大好きな父親だ。  クラックスがしゅるしゅると、ラチェルタに巻き付いてコートになる。ほんのりと光を放つ、まるで小麦畑の中にいるような温かさだ。 「昔はこうして、パパを着てお出かけしたよね。心配だからって、いつもパパが」 「懐かしいねえ。でも、あんなに小さかったチェルがもう、今は立派な一流の冒険者さんだ。子供の成長は早いってアルマナも言ってたけど、酷く実感だよ」 「ねね、パパ」 「ん? なんだい、チェル」  吐く息は白く煙って、宵闇の空気に溶け消えてゆく。  バルコニーからは、絢爛たる街明かりが一望できた。風に乗って、アイオリスの人々の熱狂と興奮が聴こえてくる。きっと、明日も明後日もこのお祭り騒ぎは続くだろう。  ラチェルタはそれを眺めながら、そっと父親に聴いてみた。 「パパは……戦ってて、怖いと思ったこと、ある? ボクはね、怖かった……一人だったら、絶対にあの場所でくじけてたと思うんだ」  物心ついた時からずっと、ラチェルタにとって父親は強い人だった。そして、その強さを必要な時にしか使わなかったし、普段は力があると気取らせもしない人だった。  そのクラックスが、感慨深く頷く気配があた。  ふわりと金のコートが一瞬だけ浮かんで、中の空気が入れ替わる。 「そうだね、ある日を境に戦いは怖くなったよ。怖くない戦いなんて、なかったな」 「えっ、そうなの!? パパでも何度かはって思ったけど……いつも?」 「そう、いつも。常に戦いは怖かったし、だから頑張れるのかな、って思ってる」 「……そう、なんだ」  クラックスは語った。  生まれて間もない頃は、恐怖という概念がなかった。錬金術の粋を凝らして造られた肉体は、この世で最も強い力を与えられていたからだ。プロトタイプの兄と違って、いりもしない人間としての身体機能すら持ち得ていたのである。  ずっと無敵だったし、怖いもの知らずだった。  けど、あの日あの時……あの瞬間から、怖くなったとクラックスは語る。 「戦うことが、手段と目的を兼ねていたんだ。僕には戦いしかなかったんだけど……それを変えてくれた人たちがいる」 「ママとか? あと、クラッツおじさんとか」 「そう。あと、兄さんだね。僕は、恐怖を分け合い支え合う仲間を得た。そして、その中に……絶対に同じ恐怖を味わってほしくない人を見付けたんだ。チェルもきっと、いつかわかるよ」  本当は、少しわかってる。  でも、二人いる親友はどちらも、自分よりちょっぴりオトナなのかな? なんて思った。  けど、そんなことはないと父が教えてくれる。  そして、それを裏付けるような声が元気に響いた。 「よぉ、チェル! コーヒーでいいか? へへっ、夜はやっぱ少し寒いな!」 「あっ、マキちゃん。ありがと! えっ、パパの分も?」 「チェルのオヤジさんはいつも、金ピカでかっけえなあ。目立つからよ、ウハハハ!」  マキシアもどうやら、大パーティの中で挨拶疲れのようだ。なにせ彼女は、ラチェルタや仲間たちと一緒に、直接あの闇と戦ったのだから。  いつかビッグな英雄になる! そう吹聴していた少女は、その予言を実現した。  ラチェルタの隣に並んで、マキシアは宿の庭を指差した。 「見ろよ、チェル。レヴィだ。さっきの話な、少し聴こえてたけどよ……みんな同じさ」 「あれ、本当だ。……あっ、デフィールおばさんもいる!」  一瞬、下の地面でデフィールが振り返った。  睨まれた気がして、思わずラチェルタはマキシアと一緒に手すりの影に隠れる。そこから恐る恐る顔を出せば、珍しくあの厳しいデフィールが微笑んでいた。  みんなの前ではシャンとしてるのに、なにか言おうとしてレヴィールは泣いている。  そんな彼女を、祖母は優しく抱き締める。  多分、みんな怖かった。みんながいたから戦えた。いつもお姉さんぶってるレヴィールでさえそうなのだから、きっと当たり前のことだ。ニカノールやフォリスだって、あのワシリーサだって怖かったのだ。  強大な敵に打ち勝つことで、自分の弱さにも克ったのかもしれない。 「おばさん、はヤベェな……地元でもメッチャ怒られたからな」 「見た目はわかいけど、ちゃんとおばあちゃんなんだなあ。レヴィのおばあちゃん、優しい人でよかったあ」 「それ、もっとヤベェからな、チェル。聴こえたら危険が危ない」 「そだね! でも、ふふ……よかった、マキちゃんも多分ボクと一緒だと思うもん」 「オレか? ったりめえよ! 正直ちびるかと思ったぜ。……少し、ほんの少しちびりかけた」  ニシシと笑うマキシアに、ラチェルタも笑みを返す。  父のクラックスは、なにも言わずにそっと広がった。その裾を持って、ラチェルタが横にマキシアを招く。二人で肩を並べれば、さっきよりずっと暖かい気がした。  こうして、小さな英雄たちの通過儀礼は終わった。  大いなる冒険は幕を閉じ、また日常が戻ってくる……この頃はまだ、少女たちはそう信じて疑わないのだった。