あの日以来、ニカノールは多忙を極めていた。  なにせ、あの世界樹の迷宮を踏破した英雄である。自ら数奇な運命に引き寄せられ、最後はそれを受け入れての戦いだったが、正直ちょっと柄じゃない。  今後のこともなに一つ決まらないまま、激務とも言えるスケジュールをこなす日々。  冒険の喧騒が恋しくなる程に、社交界や政財界での挨拶ばかりが増えてゆく。 「おい、ニカ。まだそんな格好をしてるのか? 早く着替えてこいよ」 「そうだとも。今日はスピーチが三本もあるんだ。しゃんとしないとね」  ナフムとフリーデルだ。  二人は怪我の療養がてら、今ではニカノールのマネージャーみたいなことをやらされている。早く冒険者家業に戻りたいというのは、両人とも同じのようだ。  だが、アイオリスの街はまだまだお祭り騒ぎで、ニカノールはその主役だ。  宿の三階にある自室の窓辺で、寝間着のままニカノールは溜息を一つ。 「ええと、今日はアイオリス青年会と、商工会議所と、それと」 「正直、気が滅入るわな」 「まあ、有名税だと割り切るしかないさ」  面倒なのは、一部の人間がゴシップを求めていることだ。稀代の英雄ニカノールには、美しい恋人がいると騒いでる連中がいる。  嘘ではないが、正直そっとしといてほしい。  それに、できればニカノールは歴史に正しく偉業を記されたいと思っている。  恐るべき敵を倒せたのは、仲間と名もなき冒険者たちの力が大きかった。一人ではなにもなしえないどころか、あの場所で一生死に続ける羽目になったのだから。 「まあ、今日もサクサクいこうかー、よーし、がんばるぞー」 「おーい、棒読みになってるぞ。っと、俺たちも準備だな」  ナフムのスーツ姿も、最近見慣れてきた。彼はせっせと、スピーチの原稿をフリーデルとチェックし始める。  彼らがいなかったら今頃、忙殺されている。  殺しても死なない生きた死体でも、死ぬほど忙しいのは御免だ。  そう思ってた、その時である。  突然、小さな声が耳に忍び込んできた。 「ニカ、ニカニカ! あたしです、助けにきたです!」  突然、ノァンの声がした。  周囲を見渡してみるが、その姿はない。  だが、再度呼びかけられて、恐る恐る窓の下へと首を巡らす。 「わっ、ノァン!? 危ないよ、そんなとこ登っちゃ」 「平気です。あの日からなんだか、身体がとっても調子いいです。ジズベルトのお稽古もあって、すっごく全身が絶好調なのです!」  ニシシと笑う笑顔が眩しくて、自然とニカノールも頬が綻ぶ。  窓枠にぶら下がりながら、ノァンはひそひそと言葉を続ける。 「マスターが、今日のお仕事を代わってあげたいって言ってたです。ニカはせっかくのお祭りなのに、全然遊べてないのです。それはダメなのです!」 「え、フォスが? いやでも」 「あと、ニカに会いたいって人が来てるです」 「へ? 僕にかい?」  再度、そっとナフムたちを盗み見る。  どうやらまだ、ノァンに気付いてはいないらしい。それで、ついついニカノールも悪ノリしてしまう。そーっと伸ばした手は、ワシリーサが選択して畳んでくれてる、いつもの服をひっつかんだ。  そのまま、音も立てずに窓へと身を乗り出す。  あっという間に無重力の一瞬が襲って、そしてノァンに抱き止められた。  三階建ての高さなど、ノァンの身体能力の前では意味を持たない。 「よし、脱出成功だ。ちょっと待ってて、着替えるから」 「はいです! あたしは目を閉じて百を数えるです」 「寝間着は……ああ、そこの物干し竿に引っ掛けとけばいいか」  正直、ちょっと悪いとも思った。でも同時に、ちょっとくらいならとも思うのだ。息抜きは必要だし、明日も明後日もこの手の仕事は溜まっている。  自主的に休んで仲間にフォローを頼む、それくらい許されてもいい。  そう思って着替えていると、突然腕を引っ張られた。 「ひゃーくっ! よしっ、急いで行くです!」 「わわっ、待ってノァン、まだベルトが」 「ワーシャもスゥも待ってるです!」  ひんやりと冷たい手が、同じ体温を持つニカノールの手を引っ張る。  ここは冒険者たちの街、アイオリス……普段の格好になれば、ニカノールもただのしがない屍術士でしかない。道行く誰もが、振り返りすらせず二人を素通りさせた。  そして、街の広場へと躍り出る。  大勢の人たちが行き来する中、中央の大きな噴水の前に見慣れた姿があった。 「ニカ様! こちらです」 「無事に抜け出せたか」  ワシリーサが眩い笑顔で、こちらに手を降っている。その傍らには、寄り添う影のようにスーリャが立っていた。  そして、もう一人。  目深くプーケを被ったマント姿は、久々に目にする。  そんな三人の前にノァンと並んで、ニカノールは改めて訪問者に微笑んだ。 「久しぶりだね、アルコン。君が世界樹の外に来るなんて珍しい」 「息災のようだな、ニカノール。人の世とは距離を置いてきたが、大切なことなので出向いてきた。まだ、冒険者たちに世界樹の奇跡を、その全てを渡せてはいないからな」  世界樹の頂に到達した時、あらゆる願いが叶うという。  だが、ニカノールたち冒険者はもう、そのことを忘れるほどに満足していた。未知の迷宮は踏破され、新たな歴史が開かれたのだ。その栄誉さえあれば、これからの人生に困難が待ち受けようとも、決してなにものにも屈しないだろう。  謎と神秘へ挑戦し、勝利した。  それだけで十分だった。  だが、アルコンは突然なにもないところから荷物を取り出す。そう、まるで湧き水が滲み出るかの如く現れた、それは金銀財宝、無数の宝石や金貨、色とりどりの宝物だ。  周囲の通行人も驚き、足を止めてニカノールたちを囲む。 「この財宝を全て、ニカノール……君に託す。君ならば、世界樹に挑んだ全ての冒険者の益となるだろう」 「え、あ、いや……ちょっと待って、アルコン。これは」 「小さな国ならば、一つや二つは買える、そういう価値だとはわかっている。だが、私は人類の未来を見届けたい一心で、世界樹の奇跡を自分で使ってしまった。だから、まずはこうするのが道理だろう」 「わ、わかったよ。うーん、全員で分配かな? いやまてよ……まあ、ちょっと仲間と相談してみるよ」 「それと、もう一つ」  そっとアルコンが、手を差し出してくる。  促されるままにニカノールが受け取った、それは一対の指輪だ。とても不思議な文様が彫り込まれており、手触りは宝石のようでもあり、木材にも似ている。 「これは、世界樹の指輪。この世で二つしかないものだ。冒険者たちとは別に、ニカノール……君個人にもらってほしい。私からの感謝の気持ちだ」 「凄いね、これ……え、なんか光ってるし」  まるで呼吸しているかのように、そのリングは不思議な光に満ちていた。そして、その輝きを見ていると心が安らぐ。  こちらの方は財宝と違って、すぐにニカノールには活用の方法がわかった。 「そうだ、ワーシャ。ちょっとこっちに来て」 「はい、ニカ様」  往来の行き来が止まって、誰もがニカノールを見守っている。その大勢の一部は、あの『死の後先を歩くもの』の異名を取る屍術士、英雄ニカノールだと気付いたようだ。  だが、その誰もが皆、ニカノールとワーシャを見守り、祝福してくれてる気がした。 「ワーシャ、この指輪を君に。いままでと、これからと、ずっと君に感謝しているよ。親同士が決めた許嫁だけど……まずは一緒に、恋人をやってくれないかな」 「ニカ様……ワーシャは、ワーシャは嬉しいですっ」 「相変わらず僕は死んでるけど、死に続けてでも君を守るよ」  ワシリーサの白く小さな左手を取り、薬指に誓いの指輪をそっと通す。まるでそうあるために誂えたように、世界樹の指輪はワシリーサにぴったりでとても似合っていた。  そして、もう一つの指輪を今度はノァンに差し出す。 「ノァン、君がいなきゃ僕たちは勝てなかった。だから、半分は君のものさ」 「えっ、あたしにくれるですか!? ……凄い綺麗です。ピカピカしてるです!」 「君のおかげで僕はまだ、死にながらも今を生きてる。僕の心臓を預かる者として、これを是非受け取ってほしい。君が気持ちに正直になるために」 「……はいですっ!」  おずおずと指輪を受け取ったノァンは、そのまま全身を浴びせるようにスーリャに抱き着いた。そのほっそりと痩せた長身を見上げて、満面の笑みを咲かせる。 「あたしはスゥにこの指輪をあげたいです!」 「えっ……ノァン、それは」 「最初はスゥ、悪い子だと思ったです。でも、アタシは今のスゥとずっとこれから生きてきたいのです。マスターの好きとは違う、特別な好きがアタシの中にあるのです!」  周囲から喝采が巻き起こった。  真っ赤に赤面するスーリャの指に、ノァンはリングを贈る。  こうして、世界樹の奇跡は二度目の顕現を果たした。生きたまま死んた者も、死体から生まれた者も、等しく愛と希望の物語となって未来に謳われることになるのだった。