デフィールは椅子を蹴った。  周囲の客が驚くのも構わず、テーブルをバン! と叩く。  ここは酒場、魔女の黄昏亭。  今は冒険者たちでごったがえす、まだまだ宵の口な夜の始まりだった。 「ま、待てよう、デフィール……そんなに怒るこたぁ、ねえじゃんなあ? な?」  両手でどうどうと、コッペペが制してくる。  だが、彼への怒りをデフィールは爆発させていた。  このパターンは昔から知っている。何度も何度も思い知らされている。コッペペの安請け合いはいつも、ギルドを大変な戦いに巻き込んできた。彼が記憶を失っても、デフィールには忘れられない。  そして今日も、そんなとんでもない大冒険が始まってしまったのだった。 「怒りもしますわ、コッペペ! 貴方、相変わらず……どうしてこうなのかしら!」  そう、毎度のことだ。  コッペペは、女の頼みを断らない。断れないのだ。可憐な少女から訳ありの美人、果ては死を待つ老婆でも、全て等しく同じなのだ。  御婦人の願いを叶えるために、コッペペは生きているようなものなのだ。 「落ち着けって、なあ? クラックス、お前さんも言ってやれ」 「いやあ、僕は、そのぉ……と、とりあえず、座らない? 静かに話そうよ。ね?」  クラックスに促されて、しぶしぶデフィールは座った。  怒りを通り越して、呆れる……冷たいエールを満たしたジョッキを煽って、全身に涼を招いてから口元を手で拭った。  そして、ようやく一心地ついてから言葉を選ぶ。 「コッペペ、それで? 星の海を超えて、アルコンの生まれた星へ? どうやって!」 「いやね、アルコンの奴……船を呼ぼうとしたけど、応答がないんだとよ」 「船? 星の海を渡る船かしら。まあ、それくらいじゃ驚かないけど」 「それでな? しょうがないから歩いて帰ろうってんだけど」 「海が歩けるものですか! もぉ、どうしてそう安請け合いしちゃうのかしら」  デフィールは頭が痛くなってきた。  勿論、飲み過ぎとかではない。  問い詰めてはみるものの、コッペペが知らないのはわかっている。彼は、知らないことやわからないことに首を突っ込みたがる。それが女性の願いだと、率先して首から下も突っ込んでしまうのだ。  指と指とをチョンチョンぶつけ合いながら、上目遣いにコッペペが見詰めてくる。  悪いとは思っているらしいのだが、この男は反省してみせることも大得意なのである。  そう思っていると、同じテーブルの片隅で笑い声があがった。 「ちょっと、シャナリア! 笑い事じゃなくてよ」  思わず眇めるような視線で、デフィールは腹を抱えて笑う少女を睨む。  そう、少女にしか見えないがこの人物は、何百年もの時を生きてきた吸血鬼……その真祖だ。生まれながらの強者、ヴァンパイア。遠き昔の暴王の時代より生きる、歴史音証人にして刻の墓守だ。  シャナリアはトマトジュースで割ったウォッカを飲んで、自分を落ち着かせるや話し出す。 「愉快、実に愉快だ。人間、お前たち人間はいつもそうだな」 「それはどーも、それで? はたから見てるとさぞ、面白いでしょうけどね。まあ、その、なに? 私だって、こんなこと一度や二度じゃないわ。でもね」 「――宇宙」 「えっ?」 「お前達人間が、星の海と見上げる世界……それを宇宙と言う」  デフィールはその単語を、始めて耳にした。  冒険者として生きて、既に半世紀近くが過ぎている。数多の冒険の中で、肉体は老いを忘れ、その技と力とは円熟の極みに達している。  だからこそ、今回の戦いでは決して手を出さなかった。  自分たちがもう、冒険者としては第一線を退いているからだ。  いつまでも古参のベテランが幅を利かせていては、ろくなことがない。  だが、宇宙という言葉に胸が高鳴り、少女時代の冒険譚が脳裏を過る。 「宇宙、とは」 「宇宙とは、この星に築かれた世界の外側。無数の星々を内包した、果てなき大海ぞ」 「……歩いて渡れるものなの?」 「原則としては無理だな。宇宙には重力も空気もない。歩こうにも地面がないし、吐いて吸う呼吸が不可能だ。さらに言うなら、星と星とは、光の速さで飛んでも何年もかかるだけの距離がある」  シャナリアが嘘をいってるようには聞こえない。  むしろ、装飾されていない真実のような気がした。  その全てが、コッペペの引き受けた案件、クエストやミッションよりも巨大な難題への否定を謳っている。  それなのに、ああそれなのに。  不思議とデフィールは、心が弾んで熱くなるのを感じていた。  そのことを察してか、クラックスが微笑み言の葉を紡ぐ。 「ねえ、デフィール。君がもし、レヴィだったら……レヴィール・オンディーヌと同じ立場だったとしたら、どう? 彼女ならどう選択し、なにを決断するかな」 「クラックス……それは卑怯よ、狡いわ。ええ、わかってる、わかってるのよ」 「うん。僕も、自分がチェルだったらと思うと、なんだかこう、胸の奥が熱くなる」  そう、新たな未知と神秘に挑むのは、これは冒険者の性だ。  好奇心と探究心を忘れた時、人間はこれまでのものを守る側に回る。そしてそれは、決して悪いことではない。伴侶や子を守り、国を守り、仲間を守る。  守るものが増えると、人は前に進めなくなるものだ。  ただ、それでも覚えている……前へと自分を押し出す情熱、燃えて焦がれるような興奮を。 「僕もデフィール、君とチェルたちを見守るつもりだった。二人で一人のエクレールになって、極力手を出さないつもりだった。でも」 「ええ、そうね……だってもう、見てられないんですもの」 「それに、僕たちはまだ冒険者なんだよ。鍛えた力と技、数多の危機を乗り越えた経験があっても……僕たちは今でも、新たなる冒険を前に大人ではいられない」  クラックスの言う通りだ。  星の海を歩いて旅し、まだ見ぬアルコンの母星を目指す。  それは、どんなに心躍る大冒険だろう。  そう思うと、デフィールの怒りは徐々に消えてしまう。  そして、冒険者の心得と心意気を体現する、この街で一番の二人組が現れた。 「あっ、ニカ! ニカ、あそこです! あそこでくだを巻いてるです!」 「本当だ、よかった。詳しく話を聞かないとね、ノァン」 「はいです! アタシは今、凄く張り切ってるです。やる気百万億パーセントなのです!」  我先にと、暖簾をくぐったニカノールとノァンが駆けてくる。  なんて顔をしてるのだろうと、思わずデフィールは頬が綻んだ。  二人共、瞳をキラキラと輝かせている。まるでそれは、これから踏破すべき星の海を閉じ込めたような光だ。損得や成功率、打算と計算が全く頭に入っていない。そういう笑顔だった。 「どうも、ごきげんよう! えっと……コッペペ、話は聞いたよ。っていうか、もっと詳しく聞かせてほしい。今度の冒険は、どういう感じになるんだい?」 「アタシも聞きたいです! 世界樹の迷宮より、もっと凄いですか? ワクワクなのですか? アタシはもっと沢山稼いで、スゥと楽しく冒険できるですか!」  テーブルに身を乗り出し、我先にと二人が迫ってくる。  思わずデフィールは、笑ってしまった。  そこに、若き日の自分を見たからだ。  そして、肉体こそ若々しいものの、老いた自分の中に見つけた。  まだ、自分にも目の前の二人と同じ気持ちが、燻っている。  それは今、コッペペが持ってきた話で再び燃え上がり始めた。 「二人共、落ち着いて頂戴。さ、座りなさいな。なにか注文して、ゆっくり話しましょう? それと、飲み物がないと乾杯できないじゃない」  そう、乾杯だ。  新たな旅立ちに、乾杯。  今この瞬間、アイオリスに集った冒険者たちの、最後の冒険が始まろうとしていたのだった。