アイオリスの街を、夜の帳が優しく包む。  シャナリアは一日の冒険を終えて、一人で黄昏の魔女亭を訪れていた。冒険者たちがごったがえす中で、一人テーブルで盃を傾ける。  自分も周囲の者たちと同じく、今は冒険者だ。  俗世に降りてきてから、こうした時間が彼女に不思議な充実感を与えてくれていた。 「ふむ、人間の真似事も、やってみるとなかなかどうして。ふふ、酒の味さえ違ってくるとは」  血のように赤いワインを、グラスの中で遊ばせる。  そういえば最近、人間の生き血を吸っていなかった。  シャナリアは吸血鬼、何百年も生きる真祖である。彼女ほどのレベルになるともう、太陽も十字架もその力を失う。酒の肴に摘んでいるのは、ガーリックの効いた魚介と野菜のアヒージョだ。  無敵にして無双、生物の頂点に君臨する絶対強者。  だが、ピラミッドは天へと伸びる程に細く小さくなってゆく。  その高みに一人だったシャナリアも、今は人の世で悠々自適を謳歌していた。 「しかし、この私を使いこなすとは……コシチェイ家のニカノール、面白い男ね」  ニカノールは、シャナリアが父祖の代からの大物と知っても、他の仲間たちと別け隔てなく接してくれた。畏怖も畏敬の念もそれなりで、実に居心地がいい。かしこまられてうやうやしくされるのはもう、何百年も前に飽きていたところである。  だから、一介の冒険者として世界樹の迷宮を旅するのは、とても楽しい。  彼女にとって世界樹は、自分たちの過去を飲み込みそびえる神秘。いかな吸血鬼の始祖とて、その謎の全てはわからないのだ。  自然と笑みが浮かんで、またシャナリアは杯を乾かす。  先程までリュートと一緒に歌っていたコッペペが、ステージの上で拍手に包まれているところだった。そして、次の歌い手が現れると、周囲から歓声が飛ぶ。 「よっ、真打ち! 待ってました!」 「お前さんのガナリ声を聴きにきたせ、ボウズ!」 「今日は新しい歌が聴けるらしいからな! 景気よくやってくれよ!」  バノウニは周囲に一礼して、ポロロンとギターを歌わせた。  繊細な指使いが、弦の震えを音楽へと変えてゆく。  次第に客たちが静かになるなか、初めて聴く冒険譚が爪弾かれていった。  その印象的な歌声が、不思議と今は耳に心地いい。  既にバノウニは、長い冒険の中で自分の音楽を見つけたようだった。  そして、不意に元気な声が店内に響く。 「オシショー、満席なのです。あ、でもあそこ! あそこにシャナリアがいるのです!」 「おお、これは重畳。ひとつ、レディに相席をお願いしてみましょう」 「はいなのです!」  ぺかーっと眩しい笑顔で、ノァンがこちらにやってきた。その背後には、最近格闘術を彼女に教えているジズベルトが笑って続く。  二人に椅子を薦めて、快くシャナリアは同席を歓迎した。  永遠の孤独を生きた反動か、最近は随分と人恋しく……半ば、夜の眷属たる自分の沽券に関わるとさえ言える付き合いが増えた。そして、そのことが嫌ではない。今までの生が、ただ死なないままでいただけだと知ったからかもしれない。 「御苦労だな、ノァン。それにジズベルト」 「はいなのです! シャナリアもお疲れ様なのです。お腹減ったですぅ〜」 「ハッハッハ、ノァンは今日も頑張りましたからな。実に元気で頼もしい」  身体が資本の格闘士たちは、消費したカロリーを補給すべくメニューを開く。やってきたウェイトレスに、次々と料理が注文されていった。  シャナリアもワインを追加で頼み、改めて仲間たちに目を細める。  その時にはもう、ノァンはチャージで運ばれてきたナッツを一気に頬張り満面の笑みになっていた。 「ふふ、ジズベルト。例の第六改装……『赤方偏移ノ回廊』はどうだい?」 「いやはや、見るもの全てが珍しく、踏み出す全てに未知と神秘が満ちておりますな」 「楽しそうに語るなあ、お前は」 「左様、実に心躍る冒険の毎日。それに、ノァンに武術を教える中で、私もまた多くを学びました。日々勉強、そして鍛錬、筋力と筋肉ですな!」 「いや、最後の二つは同じだろう、って……プッ、フフッ! 人間はやはり、面白いな」  すぐに酒が運ばれてきて、乾杯の運びとなった。  そこからはしばし雑談を挟んで、三人でバノウニが歌う物語に酔いしれる。  時間はゆったりと流れ、まだまだ夜は宵の口……久々にシャナリアも、酒精を多く身に招いてほろ酔い気分だ。  そして、身を乗り出して歌を聴いていたノァンが、運ばれてきたピザを切り分けつつ笑顔で語り出す。 「今の歌は、このあいだのバノウニたちの大活躍から生まれたものなのです。アタシは、あの話を聞いてブルルッと身が震えたのです」 「おやおや、なるほど。余程恐ろしい魔物と戦い、勝利を得たとみえる」 「そうなのです。あ、でもアタシはネタバレはしないのです。ラミアとの死闘、激闘、そして大勝利というのは、これはバノウニの歌を聴いて楽しんでほしいのです」 「いやいや、言ってるから。もう喋ってるから。……ん?」  ふと、気になる単語が目の前を過ぎった。  しまったです、エヘヘとノァンが笑い。ドンマイですぞとジズベルトが頭を撫でてやっている。そんな師弟を前に、シャナリアは酔いの回ってきた頭で記憶を引っ張り出していた。 「ラミア……ラミア、ラミア、ラミア……なにか、こう……昔、あったような」  そして、複雑に絡まる記憶の糸をほどけば、一人の少年が思い出される。こうして目の前にいるノァンとジズベルトのように、かつてシャナリアは一人だけ弟子を取った。このアルカディア大陸に平和を願って、吸血鬼を師と仰いで研鑽を積んだ少年がいたのだ。  そのことを今も、昨日のように思い出すことができる。  だが、酒のせいか顔がぼんやりと上手く見えない。 『先生! 我が師シャナリア・シャルカーニュ! もっと困難な試練を。私はもっと己を鍛えて、強くならねばいけないのです!』  何百年も前の光景が脳裏に蘇る。  弟子に取った少年のために、シャナリアは神話の時代に謳われた魔物を召喚したのだ。利発で武勇に優れた弟子も、流石にその魔物には手こずっていたのを思い出す。  そう、そして試練が済んでシャナリアは封印したのだ。  まさか、その土地がラミアごと世界樹の迷宮に飲み込まれて、一体化してしまうとは思わなかったのだ。 「あっ、あれか。今、バノウニが歌っている……彼らが戦ったラミアは」 「うん? どうかされましたかな? シャナリア殿」 「ん、いや、なんでもない。そうか……あの子らもまた、試練とも知らずにそれを超えたか」  思えば、最初に冒険者たちの探索に興味が湧いたのも、バノウニたちが死地で絶望に抗っていた時だ。アースラン、ルナリア、セリアン、そしてブラニー……この大陸に生きる、かつてはいがみ合っていた四つの種族が力を合わせる、それが冒険者の生き方なのだ。  それを実感して、つい手を出してしまった。  人の理にはもう干渉せぬ、二度と関わらぬと決めていたのに。  そう、シャナリアの最初で最後の弟子は、このアルカディアに四種族の絆を生んだ。それは、弟子自身が全ての種族の共通の敵となることで達せられたのだ。  後の世、今の時代は彼を……暴王と呼んで畏れ敬った。 『先生、私は行きます。先生の教えをこんなことに使う、その愚かさで時代が先に進むなら……私は征きます。どうかお元気で、先生』  愚かな弟子、馬鹿弟子だったと今も思う。  だが暴王に大陸全土が団結して戦った歴史すら、世界樹の迷宮は飲み込み今もそびえたっている。その先に広がる星の海さえ、もうすぐ冒険者たちは……人間たちは踏破するだろう。 「ふむ、いい歌ですなあ。さ、ノァン、海老をもっと食べなさい。それと野菜も」 「はいなのです! バノウニはすっごく歌が上手いのです。それに、ラミア……アタシも戦ってみたいような、怖くて恐ろしいような……昔は、こんな気持ちにはならなかったです」 「ノァン、それはあなたが日々強くなっているからですよ。恐れを知らぬ蛮勇から脱却し、正しく恐れて正しく向き合う、武道の本質に近付いているのです」 「オシショー……アタシ、強くなってるですか? なら、それはオシショーのおかげなのです」  美しき師弟愛を前に、たゆたう歌がシャナリアをまどろみに誘う。  今宵は何故か、酷く気分がいい。とても心穏で、普段は胸の奥に沈めて封印した過去が、懐かしさとともに浮かび上がるのだった。  シャナリアは、思った……彼らの物語を、最後まで見届けようと。  そして、ラミアを持て余して半端に封印したことは、ずっと黙っていようと心の中で舌を出すのだった。