決戦の日取りが決まると、両ギルドに緊張感が満ちる。  ――ということは、特になかった。  ネヴァモアもトライマーチも、極めて普段通りの平常運行。日々の調査とクエストをこなし、アイテムや武具の準備に勤しむ。世紀の一戦が控えていても、財産相続や遺書の話をする者など一人もいない。  ただ、静かに時間は流れてゆく。  その中で、誰もが必要な準備を滞りなく積み上げていた。  勿論、ニカノールもその一人だ。 「ニカ様、お茶がはいりましたわ。少し、一休みなさってくださいまし」  ワシリーサの声と共に、テーブルに香気くゆるティーカップが置かれた。  それでニカノールは、広げた書物から顔をあげる。  二人が暮らす宿屋の一室も、気付けば随分と長逗留だ。まるで、アパルトメントを借りてるような雰囲気すらあって、酷く落ち着く。  ワシリーサがいてくれることが、その大きな理由だとニカノールは知っていた。 「ありがとう、ワーシャ」 「なんのご本を読んでますの?」 「ン、ちょっとイオンに手配してもらってね。死霊術のおさらいと、まあ……今後のことを少し考えてさ。その、君との今後を、ちょっと」  ニカノールはコシチェイ家の御曹司だが、特別な力を持っている訳ではない。  強いて言えば、殺しても死なない不死身の肉体だが、それは一族の伝統のようなものである。だから、彼は平凡な一人の屍術師でしかないし、そこから実力を積み上げてきた自負もある。  そして今、ぼんやりとだが将来のことを考えていた。  その未来を共有する、素晴らしいパートナーが傍らにいるから。 「以前のフォスのように、小さな街で冠婚葬祭業ってのも楽しいよね」 「素敵ですわね……ワーシャもお手伝いしますの」 「うん。でも、他にも色々可能性はあるし、なにも冒険者や屍術師としての生き方にこだわる必要もないさ」  一口の紅茶で唇を濡らし、再度自分に問うてみる。  ワシリーサと共に、幸せに暮らすとしたら……それはどのような未来か。  今の時点で安らぎを得ているが、やはりこれからのことは大事だ。  そして、打倒星喰はそんな明日への通過点でしかない。  大事なのは、そのあとだ。  それからもずっと続く、自分と愛すべき人の毎日なのだ。 「ニカ様、実は……ワーシャも以前から考えていたことがありますっ」 「あ、そうなんだ。気になるね」 「ふふ、秘密です。ニカ様とわたしだけの、秘密……だから、少しお話しますね」  そして、ワーシャは意外なことを言い出した。  それは、いかにも彼女らしいほがらかな、そしてささやかなヴィジョン。 「えっ? 貯金してたの? しかも、結構な額だね」 「はい。ワーシャは今まで、お金というものを……経済を知らずに生きてきました。でも、今は少しだけわかります。それに、ナフム様やフレッド様からも勉強しました」 「……微妙に危うい教師たちだけど、まあ、うん」  ワシリーサは、見るも眩しい笑顔で言い放つ。  それは、ともすればニカノールを塩の柱に変える神の輝きみたいだった。 「ええと、ヒモ? そう、ニカ様がヒモになっても大丈夫ですの」 「……ま、待って! 待とう、ワーシャ!」 「蓄えも少しありますし、ワーシャは外で働くこともできます。だから、ニカ様は毎日ゆっくりと、優雅に過ごしてほしいですの」 「そのプランは非常に魅力的だけどね……まず、落ち着こう」 「? ヒモというお仕事は、そういうものだとお二人が」  あとで少し、ナフムとフリーデルに話をする必要がありそうだ。  純真であどけないワシリーサに、とんでもないことを吹き込んでくれたものである。  悪いけど、その未来は実現しない。  以前の、温室育ちな世間知らずのニカノールだったら、まだわからなかった。  でも、今は多くの知識と経験を得たから、自分で考えることができる。 「ワーシャ、あのね……ヒモっていうのは」  ニカノールは、自分の知る限りの言葉で説明を試みた。  すると、ワシリーサは耳まで真っ赤になって俯いてしまったのだった。 「まあ、まあまあまあ……わたしったら、なんてことを」 「いやまあ、気にしないで。それに、ワーシャがそう望むなら、僕だってそう悪い気はしないよ。でもね」  申し出はありがたいけど、女性の脛を齧って生きる趣味はない。  この街に、アイオリスに来なかったら、親の脛を齧り続けてたかもしれないから、なおさらだ。  不死者の言葉と思えば妙だが、生きているという実感は素晴らしいものだ。  生きがいを感じると、見るもの全てが鮮やかに色付いて見える。  その中で一番の輝きは、それはやはりワシリーサだ。  だから、最近はついつい未来に想いを馳せるようになっているのだった。 「ワーシャにこれからも頼るし、頼られてお互い助け合う、そういう暮らしを僕は望んでいるんだと思う」 「はい。ワーシャの命はニカ様の物……ただ、そうして寄りかかるだけではもう、わたしも満足できません」 「うん。とりあえず、ヒモは却下ね、却下」 「はい、ニカ様。……本当にですの?」 「……今は、却下。その、うん」  クスクスと口元を手で覆いながら、ワシリーサが笑う。  彼女と一緒なら、彼女が望むなら、ヒモでもなんでもいいとは思う。  けど、もっと楽しくてそれなりに健全な生き方が、きっとある筈だ。 「えっと、いいかいワーシャ」 「は、はいっ」 「その、今更なんだけどさ……僕はワーシャを、し、しっ、幸せにする。だから君も、僕と一緒に……幸せになって、ほしい」  口にしてから、改めて思った。  これではまるで、プロポーズだ。  まるでもなにもない、プロポーズそのものだった。  以前から気持ちは伝えていたし、指輪も渡していた。  でも、必要なら何度でも言葉にしよう。 「ニカ様……」 「ワーシャ、君は僕を幸せにしてるよ? だから、僕にもそうさせてほしい」 「はい、ニカ様。ワーシャは幸せ者です」  そっとテーブルの上に身を乗り出し、ワシリーサは目を閉じた。  自然と、ニカノールも同じように急接近。  薔薇色に艶めく、ワシリーサの唇を見詰めて、そして―― 「ニカーッ! こんにちはなのです! ニカニカ、ニカーッ!」  突然、バン! とドアが開かれた。  それでニカノールは、ギュルルン! と巻き戻されて再び椅子に戻る。  突然、ノァンが現れた。  そして、背後からスーリャも顔を出す。 「ノァン、ノックもセずに失礼だ。……ええと、ニカ、ワーシャも……ゴ、ゴメン」  あのスーリャに空気を読まれて、気遣われた。  それでニカノールは、改めて頬が熱くなるのを感じた。  はにかみながら、ワシリーサも耳まで真っ赤になっている。 「あれ? ニカとワーシャはなにしてたですか?」 「い、いや、別に! ノァンは? ジズベルトとの鍛錬は終わったのかい?」 「はいです! アタシはオシショーの一番弟子、免許皆伝なのですっ。それで、夕ご飯までニカたちと遊びにでかけようと思ったのです!」  相変わらずのマイペースだが、やはりノァンやスーリャに気負いは感じられない。そしてそれは、冒険の仲間たち全てがそうだった。  今、着実に決戦への時が流れてゆく。  その中に、無駄な一瞬など微塵もありはしない。  そして、その先こそが一番大事なことなのだった。