アイオリスの街は今日も、冒険者たちで賑わっていた。  アルカディア大陸でこの街ほど、活気と熱気、狂騒とさえ言える活況に満ちた場所はないだろう。そのことを今、ワシリーサは知識ではなく体験で知っていた。  今日もいい天気で、窓の外には世界樹が雄々しく広がっている。  魔女の黄昏亭は昼から大賑わいで、主のメリーナも忙しそうだ。  そして、護衛役にして友人のスーリャがいつも通り向かいに座っている。 「ん、どうしたんだワーシャ。私は今、なにかおかしなことを言っただろうか」  どうやら笑みが浮かんでいたらしく、ワシリーサは「いいえ」と小さく首を横に振る。  彼女は、このアイオリスにやってきた日のことを思い出していた。  ついこの間だったようにも思うし、とても昔のようにも感じられる。  そうスーリャに伝えたら、彼女も静かに微笑を浮かべた。 「そうだな、つい昨日のことのようで、とても昔のようで……不思議な気持ちだ」 「わたし、最初はニカ様に全てを捧げるために来たんです。でも、今は違う」 「私は……フォスとノァンを殺そうとしていた」 「ふふっ、スゥ様はとても怖い顔をしてましたわ。でも、今はこんなに優しい笑顔」  照れたように頬を赤らめ、スーリャがはにかむ。  スーリャはもう、初めて会った時とは別人のようだ。今でも表情はぎこちないが、それでも冷酷な鉄面皮の面影は全くない。  そして、ワシリーサは思う。  自分もまた変わったのだと。 「ワーシャは、その……このあと、どうするつもりなんだ?」 「わたしは最近、そのことをニカ様とよく話します。そういう時間が多く持てて、だからとりあえずは」 「……最近、あれは復活の周期が長くなっていると思う」 「ええ。それでも一応、最後までって……ふふ、ニカ様は責任感が強いんです。意外な程に」  世界樹の迷宮は不思議な迷宮、未知と神秘が生きる場所だ。  世界に七本あると言われている、その全てに別々の謎が封じられている。だからこそ、冒険者たちは危険を犯してまで迷宮へと挑むのだ。  だが、アルカディア大陸の世界樹には……危険な闇が封じられていた。  この星の全ての始まりに根ざす、その闇の名は幽冥なる原初の主。 「今では第六層……『赤方偏移ノ回廊』に進む冒険者も増えましたわ。ただ、その入口はあの場所ですの。そして」 「定期的に奴が蘇る。そうか、そのことをニカは」 「ネヴァモアとトライマーチに続けと、冒険者たちも日々強くなってます。だから、もうすぐニカ様が心配しなくてもいい日が来ますわ。その時は」 「ああ。きっと、必ずそういう時がくる。安心して欲しい、ワーシャ」  幽冥なる原初の主は、まるで人類の罪を思い出させるように復活を繰り返している。もともと、世界樹の迷宮ではそうした前例は枚挙に暇がない。あそこは一種の異世界で、人間の条理や常識が通用しないのだ。  倒した筈の魔物が蘇る。  仕組みはわからないが、世界樹の迷宮ではそれが当たり前なのだ。  冒険者の中には、特定の魔物の復活周期を完璧に把握し、定期的に狩ることで生計を立てているギルドがある程である。そうして安定した素材の供給があって、武具や道具が全ての冒険者に行き渡るのである。 「それにな、ワーシャ。ニカにはノァンがついてる。みんなもだ」 「ええ。……あら? あれは」  ふと、ワシリーサの視界を小さな影が横切った。  それは、今まさに冒険者ギルドで登録を終えたであろう、新米の冒険者だった。  周囲をきょろきょろと見渡し、酒場の女将であるメリーナに声をかけられずにおろおろしている。とても初々しいその姿に、ワシリーサは自然止めを奪われた。  スーリャもまた、そんなワシリーサの眼差しに視線を重ねる。  少年のような、少女のような、目深くフードを被った若者だった。 「ワーシャにも、ああいう時期がありました。きっと、誰にでもそうでしょう」 「ああ。私とて物心ついた頃からの暗殺者だったが、冒険者としてはまるで素人だった」 「最初から優れている者などいませんわ。ただ、誰しもが磨かれ成長するだけの価値を秘めている……それだけですの」  新米冒険者は、周囲をキョロキョロと見渡しながら座席を探す。  生憎と、店内は混み合ってテーブルは空いていない。冒険者の中には、立ったままで盃を交わす者たちもちらほらと見えた。  その中を、たった一人で彷徨う背中。  小さくて華奢で、とても頼りなく見えた。  ワシリーサの気持ちをさっして、すぐにスーリャが立ち上がる。こんな時、言葉もなく意思が共有される感覚はあって、ワシリーサは嬉しい。  しかし、自分たちのテーブルに招こうと思ったその時だった。 「っ! おい、痛えな! 俺の酒がこぼれちまったじゃねえか!」 「あーあー、服がびしょ濡れだぜ」 「おいチビ! お頭の一張羅が台無しだ! どうしてくれるんだ、ああん?」  新米冒険者は、厳つい大男たちの一団にぶつかってしまった。  ワシリーサの視線に、スーリャは小さく首を横に振る。見知った顔ではないし、どうやら外から流れてきた冒険者らしい。今日の迷宮探索が芳しくなかったのか、酷く酒に酔っているようだった。  当然、新米冒険者は謝罪に頭を下げた。  だが、どうやら相手に怒りを収める気はないらしい。 「おそらく、よそ者だろう。ワーシャ、ここは私が」 「あっ……いいえ、スゥ様。とりあえず、熱いお茶をもう一つ注文しましょう」 「うん? あ、ああ。なるほど、そうだな」  助け舟を出そうとしたスーリャを、ワシリーサは静かに制止した。そしてすぐに、その意味をスーリャも理解しその場に留まる。  ここは冒険者の街アイオリスで、とどのつまりそういうことなのだ。  それを何よりも雄弁に体現する者たちが、白々しい台詞と演技で現れたのである。 「まーまー、そんなに怒っちゃいけないよ。ねえ、ノァン」 「そうなのですー、ニカの言う通りなのです! この子も悪気はなかったのです」  酒場の誰もが、この時身構えながらも二人を注視していた。  そう、この二人とは……ちょうどクエストから帰ってきたニカノールとノァンである。 「なんだ手前ぇ? おう、兄ちゃん! お嬢ちゃんも! 俺ぁ、このガキと話してんだ!」 「いや、でもねえ? 暴力はよくないよ、とりあえず手を剣から放して」 「こっちの子もちゃんと謝ったです。いい大人がそんなにプンプク怒ったらかわいそうなのです」  酔いに任せて、大男はいよいよ怒り心頭といった様子だ。それでも剣の柄を放すと……その手でそのままニカノールの襟首を掴む。グイと引き寄せ凄んだ、その時だった。  最高にわざとらしい声が、棒読みで響いた。 「あっ、やめてください、ああいけない! これはいけない、暴力反対、うわー!」 「ああ、ニカが! ニカがやられてしまったのですー、これはたいへんだー!」  突然、ニカノールが脱力して倒れた。  あわあわしつつもノァンが抱き留める。  流石に巨漢の男も、おいおいよせよせと汗を滲ませた。だが、起こして立たせようとしたその男の表情が一変する。 「……え? つ、冷たい……心臓が止まってる!? おっ、おお、俺はなにも」 「うえーん、ニカが死んじゃったですー!」 「ち、違うんだお嬢ちゃん! 俺はなにも……く、くそっ! 野郎共、ずらかるぞ!」  大根役者の三文芝居に、慌てふためいて一団は店を出ていった。同時に、店内のそこかしこから拍手と口笛、笑いが巻き起こる。  呆然とする新米冒険者の前で、死を演じた男がゆっくりと立ち上がった。 「やあ、大丈夫だったかい? 怖い思いをしたね、でも彼らを責めないでやってほしい」 「アタシたちはちゃんと健康に死んでるです。気にしなくていいのです!」  ニカノールは新米冒険者を気遣いつつ、ワシリーサの視線に振り返って微笑んだ。  そして、気後れして恐縮する新人と共にテーブルへやってくる。  今、一人の冒険者の物語が始まろうとしている。  数多の冒険者がそうであるように、新しい旅立ちをニカノールたちは慈しむように歓迎するのだった。