森の奥に大惨事が広がっていた。  熟練冒険者であろう年嵩の男たちが、血塗れでそこかしこに座り込んでいる。そして、彼らが流した鮮血は真っ暗な下り階段へと続いていた。  下の階層からは、断続的に悲鳴が響いてくる。  ジルベルトは戦慄に恐怖した。  謎と神秘に満ちた迷宮は、常に死と隣り合わせの危険な場所なのだ。 「まずいな、マルコ! 間に合わなかったようだぜ」 「ああ。オリバー、済まないが確認が必要だ」 「わかってるさ、下に進もう!」  マルコとオリバーは、流石に顔色一つ変えなかった。だが、冷たい汗を手の甲で拭う姿は、ジルベルトにもただならぬ事態だと告げてくる。  この二人は、急ぎの用があって二人での強行軍を選んでいた。  それは恐らく、この惨状を防ぐためだったのだろう。  すぐにジルベルトは、ユーティスを手伝い始める。  応急処置で助かる者もいるだろうし、今は時間が惜しい。出血で呻く者たちに、遺憾ながら優先順位を付けて対するしかない。いわゆる、トリアージというやつだ。 「ジル、そちらの方はもう手遅れですが」 「そ、そう、だよね……ごめんなさい。えっと」 「あちらの方の止血をお願いします」 「わかった!」  リベルタも顔面蒼白になっていたが、すぐに作業に取り掛かってくれる。  好奇心と探究心とが、急激に萎えて冷たくなってゆく。  冒険者として迷宮調査は、遊び気分のピクニックではない。危険な魔物とトラップが渦巻く未知の魔宮では、冒険者と言えど異物、非力な侵入者でしかないのだ。  ジルベルトが手当を始めれば、肩口を切り裂かれた男が苦しげに呻く。 「う、ぐっ! ……ああ、すまないな、ボウズ」 「い、いえ」 「おっと、こりゃお嬢ちゃんかい。はは、よく見ればなかなかかわいいじゃないか」 「あの、なにがあったんですか?」 「バケモノだ……あんな魔物は見たことがない。巨大な熊、まるで鬼神のような暴力の権化」  やはり、熊の魔物が出たという。  それも、このフロアをうろつくものとは別レベルの、狂暴で凶悪な大型モンスターとのことだった。その姿を想像しただけで、ジルベルトはぶるりと震え上がる。  ちらりと見やれば、リベルタもこわばる手を必死に動かしていた。  見知った声が突然響いたのは、まさにそんな時だった。 「ジル! リベルタも! よかったです……この人たちもお願いするです! まだ生きてるです!」  不意に、下り階段から人影が現れた。  それは、一度に三人の負傷者を担いだまひろだった。血に濡れているが、どうやら全て返り血と怪我人の者らしい。  その姿にまず、ジルベルトは安堵した。  同時に、言い知れぬ不安と恐ろしさをも感じた。  まひろは疲れた様子を見せていないが、その目が不気味に輝いている。 「まひろ、無事? もう、一人で飛び出しちゃ駄目だよ」 「まだ、下に取り残された人がいるです!」 「あ、待って! 危ないよ。それに、もう」  ――手遅れの人もいる。  悲しい現実が厳し過ぎて、思わずジルベルトは口を噤んだ。  だが、まひろはまるでなにかに追い立てられるように再び走り出す。 「必ず助けるですっ! わたし、もっと頑張るです!」 「まひろっ!」  階段へ走り去ろうとしたまひろに、すがるようにジルベルトは声をかける。だが、続く言葉が出てこない。  代わりに彼女を引き止めたのは、追いついてきたまひろの兄だった。 「まひろっ! 待て、お前……駄目だ、いくらお前でも単独行動で!」  ヴァインだ。  彼はカラブローネやエイダード、マッフたちと共に追いついてきたのだ。  すぐにマッフがテキパキと仕事を始める。若輩ながら、流石は本業のメディック、医者である。彼もまた、幼さの残る表情を暗く凍らせた。医者としての判断は、ジルベルトたちが思う以上に切実な決断で、唯一ユーティスだけが指示に従い曇りなく動いていた。  そして、ヴァインがそっと手を伸べる。 「まひろ、一度帰ろう。こいつぁ大事だぜ? 探索司令部にも報告せにゃならんしよ」 「でもっ、兄様!」 「ミイラ取りがミイラになる、って言葉もある」 「それでも、助けを待ってる人がいるですっ! 大丈夫です、わたし頑張りますっ!」 「あっ、まひろ! お前、待っ――」  まひろは眩しい笑顔を残して、駆け出した。  その輝きがどこか、ジルベルトには不穏な悲壮感を連想させる。  この時、まだ彼女は知らない……まひろという冒険者、この世で一人の哀れな生命がどういう形に造られているかを。硝子の子宮で産まれ、全てをデザインされた偽りの英雄の物語を。  あっという間にまひろは下のフロアへと消えた。  急いでマルコとオリバーがあとを追う。  彼らは挨拶と礼もそこそこに、血みどろの階段を躊躇せず降りていった。 「くそっ、まひろ……お前、また」  ヴァインはただただ、虚空を掴んで拳を握る。  まひろの手を取りたかった手が、ギリリと音を立てているようだった。  そんなヴァインの背を、カラブローネがポンと叩く。それは慰めやフォローも織り交ぜつつ、抗議と叱咤も含まれているように感じた。  ジルベルトの師匠は優しいだけでなく、厳しく賢明で、面倒くさがり屋なのだ。  そのカラブローネだが、いたって冷製でいつもの調子だった。 「マッフ少年、負傷者を頼むねえ? エイダードは彼の護衛して。んで……行くしかないかあ。はあ、気が滅入る」  ヴァインもはたと正気に戻るや、拳銃の弾薬を確認し始める。  ジルベルトは気付けば、リベルタと同時に声を上げていた。 「師匠、私も行きます!」 「アタシも一緒に! おっちゃん!」 「だーめ。駄目だよん」  即答だった。  だが、二人は食い下がる。  実際、ジルベルトもまひろを見捨ててはおけなかった。生命の安全もだが、なんだろう……うまく言葉にできないのに、伝えたいことがあった。言ってやらないと気が済まないものが胸に渦巻いていた。  多分、隣のリベルタも同じだろう。 「師匠、まひろはおかしいです。でも、間違ってはいない……ただ、正しいだけの行為にまるで溺れそうで」 「……やれやれ、人を見る目は父親譲りってわけかい。さて、どうしたもんか」  ふむ、と唸ってカラブローネが逡巡を見せた。彼は一瞬だけ考え込んで、ちらりとユーティスを見やる。 「ユーティス、お前さんはジルとリベルタを守れ。それ以外はしなくていーわ。……それだけ徹底的にな?」 「了解」 「んじゃま、わがまま姫をお迎えに行きますかねえ」  こうしてジルベルトたちは、未知の階層へと脚を踏み出した。その先からは今も、赤く濡れた悲鳴が断続的に響いてくるのだった。