ジルベルトは意を決して、地下二階へと歩を進める。  濃密な血の臭いと、断続的に響く悲鳴。  初めて経験する、迷宮の裏の顔……ここは、神秘と未知が潜む冒険の舞台。同時に、人間の理が通じぬ危険な魔境でもあるのだ。  血濡れた階段を降りると、新たなフロアが目の前に広がった。 「……一つよろしいでしょうか」  さっとその場に片膝を突いて、再びユーティスはまひろの足跡を探し始めた。  同時に、彼はその作業に没頭しつつ抑揚のない声で話す。 「ヴァイン、まひろの様子は妙でした。心拍数や体温も異常値と思われます」 「あ、ああ。それは、その」 「違法薬物の類を大量に投与されている可能性があります」 「おっ、俺はそんなことするかよ! ……できる、かよ」 「可能性の話をしています」  確かに、ジルベルトもまひろには違和感を感じていた。  溌剌として天真爛漫、明るく素直な普通の女の子……の、時もある。酷く幼い印象もあって、それなのに別の顔を持っているのだ。  そう、危機を察した瞬間にまひろは豹変する。  まるで、なにかに駆り立てられるかのように危険を犯す。  危険に飛び込み我が身をいとわず、誰かのために命を投げ出してしまうのだ。  その時のあの表情、輝く瞳を思い出すと少し怖い。 「あー、その話なんだけどねえ。……ヴァイン、最低限話すぜ? 命を預けるパーティーの仲間同士なんだしネ」  ヴァインの頷きを拾って、カラブローネが話し出した。  彼は少し俯き言葉を選んで、表情だけはいつもののほほんとした笑みを浮かべる。 「昔々、その昔、わるーい魔法使いの塔で一人の女の子が生まれました」  なんの話かと思ったが、その女の子がまひろという説明らしい。  わかりやすく、かつヴァインを気遣って例え話にしてくれているのだ。  なんやかやでジルベルトは、師匠のそういうところが素敵だと思ったし、好きだった。この人は無頼のはみだし者を気取ってても、優しいのだ。 「村の猟師がその塔に忍び込むと、硝子の中で女の子が育てられていましたとさ」 「そ、それが、まひろ?」 「女の子は、魔法で『英雄として生きることしかできない呪い』がかかってるんだねえ」  隣のリベルタは真っ青になって、慌てて口元を手で覆う。  ジルベルトにも、ぼんやりと寓話の奥の真実が見えてきた。  まひろは、普通に父と母の愛で産まれた子供ではないらしい。人間が意図的に作った、英雄として生きるための人形。そして、英雄として死ぬために行きているのだ。  それを知ったら、背筋を悪寒が駆け上った。  だが、立ち上がったユーティスは顔色一つ変えない。 「事態は把握しました。まひろの足跡はあちらへ続いています、カラブローネ」 「お前さんはクールだねえ。なんかこぉ、感じない?」 「なにがでしょうか?」 「お前さんだって、大昔に人がこさえた存在じゃねえかなって思うんだが」 「私は、私たちはそのような非効率的な端末ではありませんが」  カラブローネは露骨にがっかりした顔を見せたが、ゴホンと咳払いを一つ。  事情を知れたからか、ジルベルトも心配と不安が強くなった。  なんとしてでもまひろを止めて、この場を脱出しなければならない。英雄的な行為は美しいが、それだけだ。それを、安全な場所から他者に、それも子供に求めるというのは卑劣である。  リベルタも同じ意見のようで、いつもの勝ち気な表情を取り戻した。 「んじゃま、呪われたお姫様をまずは保護しないとね」 「だね。……なんだろう、ちょっとでも、ホッとした」 「ん? どした、ジル」 「やっぱり、事情がわかってくるとね、あとは対処と今後かなって」 「んむー、そだねえ」  まひろはちょっと変な少女だが、狂ってはいないのだ。  狂った人間が生み出した、純然たる狂気の産物、祈りと願いの結晶。その血塗れの出自だって、これから次第で大きく変わってくるかもしれない。  そういう希望と可能性だけは、決して忘れないジルベルトだった。  と、その時不意にヴァインが銃を抜いた。  身構えたカラブローネも、一歩下がる。  それを見た時にはもう、ジルベルトはリベルタと一緒に壁に押し当てられていた。 「ユ、ユーティス?」 「失礼します。お静かに」  突然、抱き締められた。  酷く冷たくて、まるで体温を感じない。  隣ではリベルタが目を白黒させていた。  そして、視界が突然真っ黒に染まる。 「っ! う、うひょあ!」  ちょっとマヌケな声が出てしまって、慌てて手で口を塞ぐ。  目の前に今、巨大な熊の魔物が舞い降りたのだ。ズシン! と身を屈めて着地し、ゆっくりと立ち上がる。その血走った目は、酷く怯えていた。  この森を徘徊する王、森の破壊者である。  こちらに気付いているだろうに、森の破壊者は足早に去っていった。  まるで逃げているようである。  そして、ジルベルトはすぐに知ることになる。  森の諸王が恐れて逃げ出す、真の支配者が存在するということを。 「大丈夫でしたか、ジル。驚異は去りました。カラブローネ、ヴァインも無事ですね?」  全く動じた様子も見せずに、ユーティスが離れた。  なんだか、ビックリしたからか顔が火照って熱い。  リベルタにいたっては、ふにゃあと鼻をスピスピ慣らしながら崩れ落ちていた。 「ちょ、ちょっと、リベルタ。大丈夫? その、顔がとろけてるよ」 「アタシは壁になりたい……尊い。ハッ! やっべ、危ないところだった!」 「……もう、わりと手遅れ気味だけどね」 「大丈夫ですわ! わたくしは気高き帝国の騎士! まだギリギリ大丈夫!」  だが、茶番もここまでだった。  先程の森の破壊者は、明らかに異常な行動を取っていた。  侵入者に向かってくるでもなく、ハチミツの匂いに誘われた様子もない。  あれは、逃走……敗走だ。  野生の摂理に従い、勝てぬ戦いから逃げているのだ。  そして、さらに殺気が強まり張り詰めてゆく。  戦慄の空気が凍ってゆくなか、あっけらかんとした声が響いた。 「あっ、ジル! リベルタも、みんなも! ここは危ないです、早く逃げるです!」  迷宮の奥から、まひろが現れた。  その背に、重傷者を背負っている。  思わず、ジルベルトは真顔になってしまった。リベルタもだし、みんなそうだった。どの口が言うか、という雰囲気だったが、改めて合流できたことには安堵する。  だが、次の瞬間にはジルベルトの肌が粟立ちひりつく。 「あっ、追いつかれたです……ジル、この人をお願いできますか?」  駆け寄ってくるまひろの向こうに、ジルベルトは見た。  燃える紅蓮のような赤い獣……迷宮の通路を狭そうに駆けてくる、巨大な敵意の塊を。