戦慄に森が静まり返った。  鳥や虫でさえだまり、逃げ散る様子すら見せない。  息を殺して通過を待つ、まるで災害のような死が近付いてくる。  真っ赤に燃える紅蓮の殺意……今まで見てきた森の破壊者より、何倍も巨大な獣がまひろのあとを追ってきた。小さい頃に絵本で見た、炎の魔神のような威容が迫る。 「あっ、ジル! この人をお願いです。ここがわたしが……みんなは逃げるですっ!」  担いた怪我人を押し付けてきて、振り返ったまひろが剣を抜く。  もうすでに、血塗れの冒険者は息をしていなかった。  徐々にその身体が冷たく重くなってゆく。  直面する死を前に、ジルは身体が全く動かなかった。  それでも、必死に言葉を絞り出す。 「だ、駄目だよまひろ。まひろも一緒に……それに、この人、もう」 「わたしは大丈夫なのですっ! 亡くなってても、その死を守ってあげたいのです。家族のもとに返してあげるですっ!」 「で、でも」  まひろはそのまま、恐るべき巨獣へと向かっていった。  幾重にも残る彼女の残像が、降り注ぐ爪の一撃でかき消える。地面はめくれ上がって爆ぜ、木々が嘆き叫ぶように揺れて軋む。  闘争の空気に飲み込まれた森の中で、ジルベルトはただただ震えて立ち尽くすしかなかった。これが本当の戦い……迷宮に潜む真の恐怖。  だが、ジルベルトは一人ではなかった。 「ジルッ! その人はアタシが。しっかしなんだあれ! 殺す気か! メチャヤバじゃん」 「リベルタ……」 「まひろにさ、言ってやりたいことがあるんでしょ? わはは、背中は任せろってー」  死体をそっと受け取るリベルタも、震えていた。  もはや帝国騎士のお嬢様を演じる余裕すらないのだ。  それでも、冷たい死体と違って、鎧越しにもリベルタの手は温かい。  その熱に触れたら、少しだけジルベルトの中に勇気が込み上げてきた。 「うん……うんっ! ちょっと行ってくる。ユーティス、援護をお願いっ!」 「了解」  脚が動く。  手も指も動くから、剣を抜いて盾を構える。  なるほど流石にまひろは強い、今もほぼ互角に巨大な魔物と戦っている。ように見える。しかしそれは、危ういバランスの中でサイコロを転がし続けるようなものだ。  まひろの剣には、型がない。戦術も作戦もないのだ。  持て余すほどの身体能力で、本能のままに戦っているのである。  だから、わからない……わかれないのだ。  この戦いにまひろは勝てないということを。  そして、勝てないまでも英雄的な死を遂げればいいとされていることを。 「まひろっ! 駄目! 闇雲に戦うだけじゃ、誰も救えないよっ!」  無数の残像が幻影となって舞う。  その中で、本物のまひろへと素早くジルベルトは駆けつけた。  丁度まひろは、振り下ろされた鉄槌の如き拳を盾で受け止めている。その横に滑り込んで、二人で息を合わせてジルベルトは盾を押し返した。  同時に、少し怯んだ魔物へユーティスの投刃が降り注ぐ。 「ジル、危ないです」 「もう、どっちが!」 「だってだって、わたしは――」  ぺち、と小さくジルベルトはまひろの頬を張った。  ぺちぺちと叩いてから、頭を撫でる。 「いい、まひろ? まひろが生き残る方が、結果的に沢山の人が助かるの。まひろはだって、生きてる限り大勢の人を救えるんだから」 「……わたしが、まず、生きるですか?」 「そうだよ。死に様で英雄になるより、みっともなくても格好悪くても生き方を探そうよ」  小さく頷くまひろを連れて下がる。  その時になって、ジルベルトはようやく気付いた。  荒れて波打つ地震のような大地に、光の紋様が広がっている。これは、ウロビトの秘術だ。見れば、カラブローネの方陣が巨大な魔物の動きを制限してくれているのだった。  それに、恐るべき剛腕にも先程のようなキレがない。 「ヴァイン! 腕は封じた、そろそろずらかろうかねえ?」 「おうっ! ……まひろっ! 逃げるぞ!」  大人たちが最初から、援護してくれていた。  それでも、あの魔物は僅かに衰えながらも大暴れを繰り返している。  もう、ジルベルトたちの戦線が決壊するのは時間の問題である。ここが潮時、そう思ってジルも走り出す。  なんだか納得したようなしないような、そんな雰囲気でまひろも続いた。  まひろの手を引き駆けながら、周囲の仲間の無事を確認するジルベルト。 「あれ、ユーティスがいない!? た、大変、ユーティスが」 「彼なら最後尾、殿ってくれてるよ! すぐ来るって」 「リベルタ、怪我はない? 大丈夫?」 「んむー、平気! 実はアタシもブルっちゃってるけどね!」  一同、猛ダッシュで馳せる。  その背後に、荒れ狂う嵐の如く獰猛な牙が迫った。  ちらりと見れば、ユーティスが投刃で撤退を支援してくれていた。その投擲はあまりにも素早く正確で、何度も敵に突き刺さる。  しかし、どうやら既に毒が利き難くなっているようだ。  麻痺や睡眠をもたらす毒は有効だが、対象が耐性を得てしまうのが難点である。 「ふむ、では……近接戦闘によって脚を殺し、撤退を支援します」 「待ってユーティス!」 「問題ありません」 「あるってば、もぉ! それじゃ、まひろと一緒だよ!」  その一言が意外に効いた。  ユーティスは即座に飛び退くや、あっという間にジルベルトの隣に帰ってくる。そして「失礼」と呟くや、ジルベルトとまひろを両脇に抱えて加速した。  自分で走るよりも遥かに速い。  まひろはなんだか放心状態で、もう暴れたりはしなかった。  しかし、方陣や投刃の毒から解放されて、いよいよ暴力の権化が背後に迫る。  そして、声が走った。 「あれは……獣王ベルゼルケル! どうして……あっ、そこの子たち! こっち!」  褐色の肌も眩しい、女性剣士が手を振っている。  その先へと滑り込んで、ユーティスは奥の部屋へとジルベルトたちを放り込んだ。そしてそのまま、我が身を盾にするようにナイフを構える。  カラブローネはへばって大の字だし、予備の弾倉を取り出すヴァインの手も震えていた。  そして、リベルタが逃げ遅れて必死に走ってくる。  ちょっと、またしても乙女がしてはいけないような形相になっているが、なりふり構ってはいられないようで……それで彼女は、背負った死体を捨てようとしない。 「リベルタ! こっち! 急いで!」 「……任せて、お友達は私が助けてみるからさっ!」  女性剣士が舞うように跳ぶ。あれだけの殺意を向けられているのに、全く動じず、怯えて竦む様子も見せない。  流麗にして可憐、そして鮮烈。  その剣は歌うように振るわれる。  そして、獣王ベルゼルケルと呼ばれる魔物が初めてのダメージに絶叫した。怒りに燃えるその巨躯は、唸るような声を残して飛び去ってゆくのだった。