レムリアと呼ばれる群島の一つ、最初の『はじまり島』から樹海磁軸で飛んだ先は『幽寂ノ孤島』と名付けられた。初めての本格的な迷宮、『碧照ノ樹海』へと今日も冒険者たちは挑んでゆく。  一方で、既に調査済みの地域にも小さな迷宮が発見されていた。  比較的安全で採集活動も盛んなことから『小さな果樹園』と呼ばれている。  ジルベルトは今日、同世代の仲間たちとその小迷宮を訪れていた。 「うわわっ、みんな急いで! こっち、こっちに!」 「大丈夫ですっ! いざともなれば、わたしが受け止めるです!」 「おま、そういうとこだぞー、まひろー? いいから今は逃げるんだよぉ!」  そして、猛ダッシュで逃げていた。  通路の幅と高さいっぱいの、巨大な魔物が転がってくる。ボールアニマルの突然変異種、ビッグボールだ。なんだか昔、お祭りの紙芝居でこんな冒険シチュエーションを見たことがある。  まさか、それを小迷宮で体験することになるとは思わなかった。  だが、驚きと焦りを心に沈めて、静かにジルベルトは足さばきを使う。 「みんな、そこの角っ! 曲がって!」  即座にネカネが滑り込み、安全を確認する。次にガシャガシャとリベルタが続き、まひろもマッフを抱えて飛び込んだ。  最後にジルベルトは、最近慣れ始めた技を使って走る。  あっという間に高速移動が幻影を生み、そのおぼろげな姿だけが直進していった。  ジルベルトも角を曲がって壁に密着し、影を追いかけるビッグボールをやり過ごす。 「ふう……行ったみたい」 「ジル、ナイス」 「だね」 「凄いです! ジル!」 「えと、降ろしてくれる? あと、怪我人いないよね?」  今のは正直、危なかった。  この小迷宮『小さな果樹園』は比較的安全で手頃な場所だと聞いていた。探索司令部の派遣してくれた衛兵たちも、仔鹿くらいしかいないと笑っていたのである。  しかし、やはりまだまだジルベルトたちは駆け出しの冒険者だ。  どんな場所でも気を引き締めていかなければと、改めて自分を戒める。  まひろの声が響いたのは、そんな時だった。 「マッフ、この子が怪我をしてるですっ! 今、助けてあげるです!」  その声に誰もが振り向き、ジルベルトを悪い予感が襲った。  道の隅に、罠にかかった小さな仔鹿が震えている。  前足に食い込んだトラバサミが、幼い獣に出血を強いていた。  それを見た瞬間、まひろが躊躇なく動く。  屈んだまひろは、あろうことか素手でトラバサミの刃をこじ開けた。鮮血が吹き上げ、まひろの白い顔に朱が走る。だが、彼女は笑顔で仔鹿を救い上げた。 「マッフ、この子の怪我を」 「ああもう、なにやってるんですか! まず置いて、仔鹿置いて! 消毒しますから!」  マッフが真っ青になった。  ジルベルトも目眩を感じていたし、リベルタにいたっては顔がフラットな無感情に凍っていた。  ありえない。  なんで、どうして?  その理由は理屈では知らされているのだが、改めて見ると信じられなかった。  慌ててマッフが医療鞄を開く中、小さな影がまひろから仔鹿を取り上げる。 「まひろ、貸して」 「あっ、ネカネ。はいです!」 「……この、おバカ」  仔鹿を小脇に抱えたままネカネは、ぽっけーん、とまひろの頭を叩いた。身長差があるので、背伸びして再度ぽすぽすとチョップを御見舞する。 「いたた、いたいですネカネ」 「まひろ、朝ごはんなに食べた?」 「ほえ? えと、トーストを四枚とサラダ大盛り、目玉焼き二つに、カリカリのベーコンです。あと、牛乳ですっ!」 「そのベーコンとかはね、家畜だけから作ってるんじゃないんだよ?」  ネカネは怒鳴ったりしなかったし、静かにゆっくり話す。まるで幼子をたしなめるように。だけれど、そこには確かに怒りと憤りと、いいようのない悲しみみたいなものが滲んでいた。  ネカネはエトリアの冒険者一家の出だ。  この中では、誰よりも迷宮に関しての知識と経験を持っている。 「この罠は恐らく、他の冒険者がしかけたんだよ。で、その人の晩ごはんがこの仔鹿」 「……えっと、つまり、その、もしかして」 「かわいそうだと思うのは、いいよ? でも、人間はみんな他の命をもらって生きてるの。だから、この仔鹿は手当できないし逃してもやれない。それと」  一番大事なことを、ネカネは僅かに語気を強めて語る。 「まだ難しいかもだけど、行動する前に少し考えて。思ったままに動いてたら、まひろだけじゃなく仲間も危ないよ?」 「は、はいぃ……わたし、またやってしまいました」 「ん、わかればオッケー。さ、手当されるのはまひろの方」  ジルベルトが口を挟むまでもなかった。小さな大先輩ネカネは、やはりこういう時には頼れる。腕組みうんうんと頷いていると、ようやく平常モードに戻ったリベルタが声をあげた。 「んで? その子どうすんの? ネカネママー?」 「誰がママか、誰が。えっと、ロープでその辺に縛っておけば――!」 「ッ! マッフ、まひろと下がんな! ジル、なにか来るっ!」  ジルベルトもすぐに感じた、それは強烈な殺気。  あまりの戦慄に肌が震えて、背筋を冷たい悪寒が駆け巡る。  すぐにネカネが背の弓を降ろして弦を張る。  リベルタも巨大な砲剣を構えて撃鉄を引き上げた。 「……来るっ! みんな、気をつけて! 危険な魔物かもしれない!」  ジルベルトも剣と盾とを持ち直して、先頭へと立つ。  ちらりと見れば、自分も自分もと逸るまひろをマッフが抑えてくれてる。  両手をざっくりやってしまって、まひろは今は戦力にならない。否……それでも戦えてしまうし、そういう風に造られてるのがまひろという少女だ。  だが、過度に頼らないし、その身体能力を計算的に使ったりしない。  怪我した仲間はみんなで守る、師匠からも教わった基本的なことだ。  そして、恐るべき果樹園の主が姿を現す。 「親鹿だ……なんて大きい!」 「……あちゃ、やばいねこれ。ジル、逃げる準備しつつ、下がるよー?」 「や、やっぱり? なんか普通じゃないし、それに……凄く、怒ってる」  憤怒に燃える巨大な牡鹿が現れた。その立派な角は、まるで迷宮の天井を覆うように広がっている。恐らく、先程の仔鹿の父親なのだろう。  その目には、野生の炎がギラギラと燃えていた。  ジルベルトはその瞳に見詰められただけで震えが込み上げる。 「わたしが矢を射るから、同時にみんなで全速力。逃げるよ、いい?」  ネカネは仔鹿を手早く縛って枝の上に吊るす。同時に、番えた矢を低く低く撃ち放った。まるで地を這う影のように、その一矢は親鹿の前足に突き刺さった。  その時にはもう、ジルベルトは仲間たちと全速力で撤退である。  ただ、背中はずっと悲しげな親鹿の鳴き声を聴き続けるのだった。