火星――それは嘗てのフロンティア。
前暦の人類は太陽系の未開惑星をテラフォーミングし、さらなる外宇宙へと夢を馳せた。大気は言うにおよばず、自転周期や重力、日照までもが地球を基準に調整されたが……火星に人々の営みが根付くことはなかった。
様々な理由が折り重なり、開拓が頓挫した火星はしかし、電脳暦の時代に再び歴史の表舞台へと帰ってきた。煉砂の灼けた大地を疾駆する、バーチャロイド達を主役に。
《Attention Please――本日はウィスタリア空港行418便に御搭乗いただき、まことにありがとうございます。現地の気温は12度、天気は快晴でございます》
フライトアテンダントのアナウンスと同時に、頭上の警告灯が消える。シートベルトを外したシヨ=タチバナは、短い旅を最大限に満喫すべく立ち上がった。
火星を取り巻く双子の月、その片方であるフォボスより打ち出されたシャトル。予定通りなら目的地までの道程は、僅かに二時間半の旅路である。しかしシヨは、その僅かな時間もじっとしてはいられなかった。
人の流れが収まるのを待って、彼女はラウンジへと降りてみる。緊張と興奮が渦巻く、小さな胸を弾ませながら。
「凄い、火星があんなに大きく。実際に降りるの、初めてなんだよね」
低重力の中をシヨは、スキップするように床を蹴る。何組かの乗客が歓談する横を抜けて、スーツ姿の彼女は大きな窓へとへばりついた。
軍神の名を冠する紅い星は、手を伸べれば届きそうな距離に広がっていた。
「わあ、ホントに海が無いんだ。あ、何か光った。何だろ、沢山光ってる」
分厚い硬質ガラスに額を寄せて、シヨは広がるパノラマに魅入った。思わず感嘆の言葉が口から零れる。すぐ側のソファに身を沈めて、携帯用端末をいじる青年の存在にも気付かずに。
「お嬢ちゃん、火星がそんなに珍しいのか?」
どこかブツ切りな印象の声。青年は端末が空気中に投影する映像から目を逸らさず、シヨに語り掛けてきた。皮のジャンパーに擦り切れたジーンズ、年の頃はシヨとそう変わらない……二十歳前後に見えるが。逆に彼の口ぶりでは、シヨは随分と年下に見られているようだった。
しかしその事に関して、別段気分を害した様子も見せないシヨ。
「あの光は前線の戦闘だ。去年の暮れから、ずっとアダックス系列の攻勢が続いてっかんな」
「戦闘、ですか」
「火星には街なんて、数える程しかねぇんだ……あの地域にゃ誰も住んじゃいねーよ」
「はあ」
青年はぶっきらぼうに、大して興味もないような口ぶりで。相変わらず眼前の映像を見ながら、端末を忙しくいじっている。
しばし眼前のパノラマを見詰めていたシヨは、言葉の途絶えた青年へと振り返った。彼が見ているのは、どうやらどこかのニュースチャンネルらしい。
シヨは意を決して、窓に突いた手で自分を押し出す。
「VOX系だが見ねぇ型だな、この両手がドリルの奴。最新のカタログには載って……ねぇか」
背後から近付き、少し顔を寄せて覗き込む。それでも青年はシヨに気付かない。お邪魔します、と言って隣に座っても同じだった。
真剣な表情で映像を見詰める、その整った顔立ちは美男子と言えなくもない。無節操に伸びたブラウンの癖っ毛も、ワイルドだと言えば聞こえはいいが……その風貌に反して、全体的に覇気が感じられない。それはしかし、普通の人間が持つ第一印象である。シヨのそれはまた、全然違う。
シヨの抱いた感触は、"バーチャロイド好きっぽい人"という一点だけだった。それは彼女にとって、好意をもって接するべき、疑う余地の無い善人の証。
何気なくシヨは映像を覗き見た。見知らぬ若者と頬が触れる距離まで接近しても、全く異性を彼女は意識しない。少女然とした容姿に反して、或いは即して。シヨの精神年齢は概ね少女以下。
「何だ、お嬢ちゃん。俺に何か用か?」
シヨに青年は気付いたが、それでも視線を動かさない。自動でリピートされる映像が最初に戻り、バーチャロイド同士の戦闘映像が繰り返された。
「あ、ボビーだ」
「あ? お嬢ちゃん、このバーチャロイドを知ってんのか?」
初めて青年はシヨを見た。しかし、顔の近さに驚かない。それをいいことに、ずいと身を乗り出してシヨは画面を注視して。やっぱりそうだ、と頬を綻ばせた。
「ボブの派生機なんですよ、この子。ほら、男の子ってドリルとか好きじゃないですか」
「そうか? まあ、好きって奴もいるけどよ……つーか、何で知ってんだ」
「わたし、小さい頃からバーチャロイドが大好きなんです。色々ネットで調べて」
そう言ってモバイルを取り出すシヨ。
「これなんですけど、実際に販売されてたなんて……驚きました」
普通は見ず知らずの人間とは、モバイルをリンクさせたりはしない。無断でリンクするのもさせるのも、非常識にあたる。しかし何のためらいも無く、許可も得ずにシヨは青年の映像に割り込んだ。
無類のバーチャロイド好きであるシヨは、趣味の事となると些か常識を欠く傾向があった。
ニュースの画面の片隅に、シヨの端末から吸い出されたデータが映る。
「ああ、確かに。同じバーチャロイドだな」
画像の下には「VOX B-248 "Bobby"」の字が表示される。ここは非礼を怒ってもいい所だが、青年はそのデータをぼんやりと眺めていた。その反応は驚く程薄い。世間では、こういう場所でモバイルをリンクさせる男女を何と呼ぶか。その事を二人とも失念していた。
「WVC? あ、これってウィスアリア・バーチャロイド・チャンネルのニュースなんだ」
「まあ、そうだな。昨日の事件なんだが、一応予習がてらって感じでよ」
「凄いな、レアなバーチャロイド見ちゃった。ウィスタリアかぁ、どんな街なんだろ」
「どんな街ってお嬢ちゃん、これから行くんだろ?」
ウィスタリアRJ――正式名称、ウィスタリア・リプレニッシュ・ジャンクション。通称ウィスタリアは火星最大の補給基地である。同時に、火星戦線に参加するほぼ全ての企業が協賛する観光地。毎日百を超えるバーチャロイドが出入りし、千を超える輸送機が僻地の基地や陣地へと飛ぶ。
全体がバーチャロイドサイズに合わせて作られた、巨人達の街。それがウィスタリア。
「あ、あの、このニュース、音出ないんですか?」
「……ほらよ」
青年は端末からイヤホンを引っ張り出して差し出す。シヨはそれを手で受け取らずに耳を寄せた。
《MARZの出動により今回も、都市部の被害は極めて軽微に終わりました。この件に関して……》
映像の中では、MARZの所属を示すカラーリングのテムジンが、ボビーを蹴って宙へと舞う。瞬時に放られたスライプナーが変形すると同時に、ブルースライダーで急降下。マイナーなVOX系の改造機は、胴を両断されて崩れ落ちた。
《バーチャロイドによる乱闘事件の多発に、MARZウィスタリア分署では公式声明を……》
夕日をバックに敬礼するテムジンで、ニュースは締めくくられていた。その映像に夢中のシヨは、自分のモバイルが緊急連絡を着信しているのにも気付かない。彼女の端末は長々とコールを繰り返した後、沈黙。それをただ眺めていた青年は、今度は自分のモバイルが鳴った瞬間手元を操作した。
たちまち映像が切り替わり、シヨは驚き口に手を当てる。
自動で音声が外部出力へ切り替わる。画面には見慣れたシンボルマークが浮かび上がった。
《おはよう、ルイン=コーニッシュ三査。私はウィスタリア分署バーチャロイド部隊隊長、リタリー特査だ。正式な赴任前で申し訳ないが、緊急事態につきミッションに参加してもらう》
良く通る女性の声。しかし画面では、MARZのシンボルマークが回っているだけ。申し訳程度に、相手が喋るたびに"Sound Only"の文字が点滅する。
シヨは驚き呆気に取られた。見知らぬ青年は実は、今日から一緒に戦う同僚だったのだ。
《同じ便に搭乗している予定の、シヨ=タチバナ三査と連絡が取れない。まずは客室乗務員と連携して、機内にいるかどうかを確認し――》
「は、はいっ、自分がシヨ=タチバナ三査でありますっ」
思わず大きな声で、シヨは立ち上がって敬礼をしてしまった。ラウンジ中の視線が彼女に殺到する。
慌しくなる周囲にしかし青年は……ルイン=コーニッシュ三査は気にする様子も見せず。かといってシヨをとりなす訳でもなく、黙って映像をじっと見詰める。
《ん、既に合流していたか。なら問題は無い。タチバナ、以後は緊急の連絡にちゃんと出るように》
「も、申し訳ありませんでした」
《とりあえず座りたまえ、敬礼もいい。兎に角、緊急事態なのだ。コーニッシュ、音量を絞れ》
どうやら向こうには見えているらしく。ルインのモバイルに光るカメラのレンズに、シヨは溜息を一つ。赴任早々の大失敗というのは良く聞くが、赴任前からこれでは先が思いやられる。彼女は落胆を隠さず、崩れるようにソファに腰掛けた。
そうして二人は、ボリュームを落としたモバイルを挟んで額を寄せる。
《ウィスタリア空港にてバーチャロイドによる事件が発生した。本来なら君達が正式に赴任するまで、第一小隊が担当するべきなのだが……生憎と別の事件で出払っている。そこで、だ》
緊急事態と繰り返す割には、二人の上官の声は落ち着いていた。優雅と言ってもいい。
《略式ではあるが、ここにウィスタリア分署バーチャロイド部隊第二小隊の発足を宣言する。各自、貨物室に積み込まれた乗機を起動し、着陸寸前に降下。暴走バーチャロイドを速やかに無力化せよ》
一瞬、シヨは何を言われているのか解らなかった。しかし隣でルインは短く「了解」と言って敬礼し、同時に映像も音声も途切れてしまう。
既にもう、シヨの初仕事は始まっていた。
「シヨ=タチバナ……珍しいな、日本人か?」
「え? え、あ、はいっ、日本生まれの日本育ち、ですっ」
モバイルをしまいながら、ルインはシヨに向き直った。半開きの眠そうな目を、思わず見詰め返すシヨ。
「シヨ、か……"紫"に"余る"で"紫余"だろ?」
「な、何で解るんですか?」
「俺、第二外国語で日本語取ってるからよ。それに……一目瞭然だっつーの」
「え?」
名は体を現す、という言葉がある。
不思議そうに小首を傾げるシヨを、ルインは指差した。正確には、彼女の額の上に伸びる一房の髪を。
腰まで伸びる真っ黒なストレートを、シヨはヘアバンドで止めていた。思わず撫で回したくなるようなオデコの上に、逆立つ一房だけが紫色。
「お前、末っ子だろ? しかも、やたらと兄弟の多い家のよ」
「どうしてそこまで……アタリです。わたしは八人目との間に生まれた十七人目だって」
「そのいい加減なネーミングセンス聞きゃ、何となくな。親も面倒だったんだろうよ」
「いやぁ、それ程でも」
誉められてはいないがシヨは照れた。その事にもやはり、ルインの反応は薄い。
「お嬢ちゃんみたいなのがMARZたぁな。まあ、無理もねぇ。ウィスタリア分署のエース様は十八歳だって言うしよ。十五、六の小娘が隊員でも驚かな――」
「あの、わたし二十歳です」
「……同い年かよ」
「です」
ルインは驚いているようだったが、その表情に変化は乏しい。そうかそうかと、彼はしきりに頷き立ち上がる。既にもう、作戦は開始されていた。
《ラウンジでおくつろぎのお客様にお知らせします。間もなく当機は、大気圏へと突入いたします。客室乗務員の指示に従い、席へとお戻り下さい》
周囲の客たちがキャビンへと引き上げて行く中、シヨもソファを立つ。
「俺は機長と話つけてくっからよ。シヨ、お前さんは貨物室で機体を起動しろ」
「う、うんっ……ええと」
「ルインでいい、時間ねぇぞ。とっとと行けよ」
「解った、ルイン君。先、行ってるね」
手近なフライトアテンダントを掴まえ、シヨは貨物室への乗務員用階段へバタバタと消えてゆく。その背中を見送り、ルインはコクピットへと踵を返した。
あまりにも頼りない相棒の存在にしかし、小さな発見を己の内に見出すルイン。
「ふん、相棒ね……俺が相棒だってよ」
一匹狼が信条の自分には珍しいと思いつつ、これが組織に身を置くことかと納得しながら。ルインは閉るシャッターが覆う窓の火星を振り返って。その姿が見えなくなるや、走り出した。