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 曇天を仰いだ鼻先に、一滴の雨。その雫は形良い鼻を伝い頬を濡らして、小ぶりな顎の先に光の球を象る。エステルはそれを手の甲で拭って、溜息をついた。その間にも二滴、三滴と零れ落ち、本降りになるやエステルは駆け出した。

「もっ、パイオニア2の気象台も当てになんないな。……ま、これが自然ってものね」

 知らずに身体が慣らされすぎた、パイオニア2での高度な管理社会を思い出す。そこで発信されるのは天気予報ではなく、天気予定だ。だからエステルは今、一年ぶりの感覚を味わっていた。突然の雨に降られて、追われる様に大樹に身を寄せる……彼女を包むは、人の手にあまり、人の意にそぐわぬ大自然。
 帽子を脱いで湿気を吸った髪を手ですきながら、黙ってエステルは空を見上げた。風は強く、雨雲は低くを速く流れ去る。通り雨だと思えば、小休止の言い訳にもちょうどいいから。彼女はモノフルイドのタブレットを取り出し、ケースから一粒口へと放った。

「とりあえず、も少しマップを埋めて切り上げようかな。今日も収穫なし、と」

 疑惑の地、第207貯水池は雨に煙る。かの地では今、エステル達を初めとする少数のハンターズが散発的な調査を進めていた。当然これといって新しい発見もなく、虚しく時間だけが過ぎてゆく。
 今だパイオニア2では、この場所が秘匿されたその意味すら掴めていなかった。調査も充分とはいえない段階で、ハンターズの多くは再びセントラルドームへと目を向けることになったから。なぜならば――

「穴、ねえ。穴……あの穴。うーん、あそこから出てきたのかな……リコの言う『何か』が」

 忽然と住人の消失したセントラルドームは、危険も少ないことから調査は後回しになっていたが。つい最近になって大きな発見でハンターズを賑わせていた。あっという間に、謎の秘密基地めいた貯水池も色褪せるだけの、強烈なインパクトが新発見にはあったのだ。
 それが穴――セントラルドーム近くの大地に穿たれた、奈落を思わせる巨大な縦穴である。
 リコのメッセージとの符号点も多く、すぐに本腰を入れた調査が始まった。そして瞬く間に行き詰る……穴はどこまでも深く、地の底へと続いていた。1メセタコインを投げ込んだ者は大勢いるが、誰一人として落下の音を聞いた者はいなかった。

「ヨラシムとカゲツネは、今日はあっちか。まあ、一度は見といたほういいけどさ」

 木の幹に身を預け、大きな帽子を抱きしめずるずると背を擦りながら。エステルは地に張り出した太い根に腰掛け、思案に沈む。
 気だるさが込み上げ、雨が上がるのを待ってパイオニア2に戻ろうと主張する自分。そのわがままで気分屋なところを押さえつけて、今日の自分が課したノルマを果すべきだと主張する自分。甘い誘惑と生真面目な勤勉さを同居させたまま、エステルは自分会議にしばし耽った。
 と、人の気配が近付き、自然とエステルは身を正す。

「うわーっ、ビショビショだ……でも凄いっ! 久しぶりに雨に降られたぞ、うん!」

 やけに能天気な、快活で明朗な声に聞き覚えがある。立派な常緑樹を隔てた背後に、転がるように駆け込んだ人物の名前と顔が、すぐにエステルの中で一致した。
 そっと木の幹から覗き見れば、帽子を脱いで絞る赤い長髪は、間違いなくエステルの大後輩その人。

「……何してんの、ザナード君」
「うひゃい! ビ、ビックリしたー、驚かさないで下さいよぉ。エステル先輩、こんにちはっ!」
「いや、普通に声かけたんだけど? って、びしょ濡れじゃない。こんな雨の中、何やってんだか」
「ふっふっふ、良くぞ聞いてくれました! 僕は今、アレを追っているのですっ!」

 絞りすぎてシワになった帽子を握り締め、ザナードは目の前の地面を指差した。眉根を寄せてエステルは、その一点を凝視する。険しい表情で睨むまでもなく、目の前に巨大なパイプが走っていた。恐らく直径は数メートル程はあろうかという合金製のパイプは、茶色い本体の大半を地上に埋め込まれている。
 エステルは帽子をかぶりなおすと、隣で今か今かと説明の要求を待ち侘びるザナードを横目で見て。そのまま腕組みフムと唸って、期待に応えることにした。

「で? このパイプは何なのさ」
「良くぞ聞いてくれましたっ! 先輩、これは貯水池から水を汲み上げてるパイプなんですよ」

 得意満面の笑みで胸を張ると、ザナードが解説を始めた。
 この第207貯水池は、セントラルドームに水源を供給していなかったのは周知の事実だが。確かに何処かへ、今現在も水を汲み上げ、蒸留して送り出している。先日、その流れを追ってみようと話が纏まったところで、例の大穴発見のニュースが舞い込んだのだった。
 ザナードは他の仲間に先駆けて、どうやら一人で下調べをしていたらしい。新米がでしゃばるなと小言の一つも言いたくなるが、ベテランの癖に独断専行した先日の一件もあって……結局エステルは言葉を飲み込む。

「でも一人じゃ、この先危ないじゃない。結構大型の奴も出るし、数で押されたら」
「そこです、先輩。いやぁ、運がいいな僕は……頼りにしてまっす!」
「調子いい奴。ま、いっか……どの道調べる予定だったし。少し付き合ったげる」
「一応、師匠と先生にも言って来たんですけど。お二人とも今日は――」
「穴でしょ、穴。セントラルドームにいると思うけど、今」
「はいっ! で、僕は暇になっちゃったんで、下調べというか。あ、雨弱くなりましたね」

 枝葉に守られた中から腕を突き出し、雨粒を手で受けながらザナードが振り返る。赤い長髪が揺れて、さらりとなびいた。
 前からエステルは気になっていたのだが、その髪はいつも湿気や乾燥とは無縁に見える。この年頃の子供は容姿にはうるさいイキモノだとは知っていたが、ザナードの髪は不自然に長かった。無造作に伸ばしている印象はなく、きちんと切り揃えられているのも不思議だ。
 それに比べてアタシときたら、と湿気に跳ねる癖っ毛を指でつまむエステル。くるくると巻いてみるそばから、薄栗色の髪はあらがうように弾けた。

「ま、いいけどさ。ザナード君、今の若い子の流行なの? その髪」

 雨、あがる。雲の密度が薄まり、天から覗く太陽が光の柱を森のアチコチに現出させた。濡れた土へと踏み出すザナードに続いて、エステルは並ぶなり背の高い少年の顔を覗きこんだ。
 改めて見ると、ザナード=ライカーナという人間の容姿的な優位性にエステルは気付く。彼女の厳しい選定眼にも耐えうるだけの、整った顔立ち。まだ表情は幼いが、それも一つの良さだと思えば……ザナードは充分に美少年にカテゴライズできた。
 もっとも、エステルは守備範囲外なので、それ以上の感想を抱くことはなかったが。

「ああ、この髪ですか? これ、母譲りなんです。そうだと知ってから、つい切れなくて」

 それ以上の詮索はやめて、エステルは問題のパイプにトンと飛び上がる。
 互いに無用な過去の詮索はしない。それはハンターズの常識だった。マナーとルールの間に横たわるグレーゾーンの中で、その意味の重さは個人に委ねられてはいるが。概ね、深入りを良しとしない風潮が本星で昔から育まれてきた。ハンターズはその成り立ち上、誰もがスネに傷持つ者同士だから。
 無論、エステルだって過去のことを詮索されたらいい気持ちはしない。自分から思い出を語れる者がいれば嬉しいし、辛い過去を明かせる人間がいたら幸せだとは思うが。
 だから、髪の話はここまで。すぐにエステルはハンターズの顔を取り戻す。

「ザナード君、どっちから来たの? ええと、貯水池はこっちか」
「はい、パイプはあっちに伸びてるんで……この森のさらに奥、ですね」

 そのままパイプの上をエステルは歩き出した。並んで続くザナードとは、普段と目線の高さが逆転している。無邪気な笑顔で見上げてくる後輩の、他愛のないお喋りを聞きながら。懐かれてると思えば、悪い気もせずエステルも適当に言葉を返した。
 パイプは足の下で激流の音を僅かに響かせながら、森の奥深くへと二人をいざなった。

「あ、エステル先輩。濡れてて滑るんで、気をつけて下さい」
「へーきよ、へーき。よっ、と……ほら、何か見えてきたけど?」

 突き出たバルブを飛び越え、キュッキュとブーツをならしながらエステルはパイプの上を歩く。その先に次第に、小さな建造物が見えてきた。足元のパイプは、無骨な灰色の建物に直結されていた。
 大きな門を構えた造りは、エステルにどこか監視所のような物騒さを感じさせた。

「あれは……たぶんあそこから地下に潜ってるのかな。このパイ、プッ!?」

 不意につるりと、足元の感覚がエステルを裏切った。突然の浮揚感に、慌てる間もなく重力に掴まる。だが、したたかに合金製のパイプに腰を打ち付けるのだけは、エステルは間一髪で免れた。

「大丈夫ですか、先輩?」
「あ、うん。へーき……」

 すぐ隣を歩いていたザナードが、咄嗟にエステルを受け止めた。そのまま両手で抱かかえて「だから言ったじゃないですか」と、少し得意気に微笑む。
 危くエステルは守備位置から猛然とダッシュし、外野へ飛び込むホームランを受け止めそうになった。少なくとも、守備範囲が確実に広がるのは感じた。三十路も過ぎれば、ときめきという単語は脳裏に結ぶだけでも恥ずかしいが。
 しかしこうして、まるで物語の御姫様の様に抱かかえられるのは、それはそれで悪い気もしない。

「ごめん、ありがと。とりあえず下ろしてくれるかな」
「あ、はいっ。でも先輩、ちゃんと食べてますか? 変に軽いですよ?」
「……誰と比べてるのかな、誰と」
「や、父さんですけど」

 エステルは決心した。今度カゲツネに会ったら、教育不行き届きだと嫌味を言ってやろうと。最近はあれこれとザナードに、世の女性のなんたるかをカゲツネは語っていたが。幸か不幸か、ザナードにはその影響が全く見られなかった。まだ早いと見るべきか、この年頃ならと心配するべきか。
 とりあえずはしかし、清々しすぎる健全さに助けられてエステルは大地に足を付ける。改めて見やれば、すぐ目の前に怪しげな門が鎮座していた。そこでパイプは途切れ、地下へもぐっている。

「先輩、何ですかね……この建物、貯水池の施設にしては」
「うん。あれが秘密基地なら、こっちはさしずめ露骨な基地……の入口って感じかな」

 それはエステルには一目で、軍の施設と解った。本来ならば恐らく、ここには歩哨が立っていたに違いない。その先にある何かをもう、隠す気配すらなかった。
 もしカゲツネがいれば、建物の外観からだけでもかなりの情報が引き出せるとエステルは思った。不思議と自称イケメンレイキャストは、軍の事情にアレコレ精通していたから。それもやはり「何故?」や「どうして?」を突きつけたりしないのがハンターズの流儀だから。ただ、そんなものだといつもエステルは頼ってきただけ。
 躊躇する素振りも見せずに、無用心にザナードは門を開けた。彼も彼なら門も門で、容易に重々しいシャッターが開いた。

「先輩、この建物の中……テレポーターですよ、しかもかなり大きい!」
「パイプは地下へ、か。じゃあ行き先も……電源は? 生きてる?」
「コイツ、生きてますよ。まだ動いてる。この先にじゃあ、何かが」
「待って、とりあえず他の二人にメールするから」

 ザナード、待て……と言い聞かせたら、恐らく大人しく従うだろうなとエステルは笑いを噛み殺した。目の前の少年に子犬のイメージが重なる。
 その時、取り出した携帯端末がメールの受信に震えた。思わず身が強張り、エステルはすっと背筋を伸ばす。しかしそのまま受信箱を無視して、彼女はヨラシムとカゲツネへ手早くメールを打った。
 背後では驚きの声をあげながら、ザナードは建物を調べている。どうやら大型のテレポーターがあるだけの、正にどこかへの「ゲート」であるらしい建造物。しかしその物々しい雰囲気は、軍独特の寒々しさが感じられた。
 ややあって返信があり、エステルは選別の設定をし忘れた受信箱を見るハメになる。堆積した同一人物からのメールの山の、その一番上に……短い一文でヨラシムからの返事があった。

「カゲツネと今からそっちに行く、か」

 そのまま溜まったメールに、今は手を付けずにエステルは携帯端末をしまう。件のメールの山を、さてどうしたものかと……どうしたいのかと胸中に呟きながら。今だ赤い光を湛えてどこかへ通じる、テレポーターの光をエステルはぼんやりと眺めた。

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