誰かが、呼んでいる。
声のする方へと、エディンは意識を向けた。酷く懐かしいような気がする。
「呼んでる……あれは、師匠と、先生だ。呼んでる……」
薄らぐ意識が、かすかな声を拾った瞬間。エディンの肉体は不意に覚醒した。
青い空、白い雲。見渡す限りに広がる、肥沃な大地と萌える緑。
「あ、こっちに気付いてくれたですう」
エディンは、酷く堅い膝枕に頭を乗せて、蒼空を仰いでいた。ぼんやりと定まらぬ焦点が明確さを取り戻せば、自分が今いるのがラグオルの森と気付く。
そして、自分を笑顔で覗き込んでくるのは、エルノア・カミュエルだった。
ザナードは今、エルノアの膝枕に抱かれて、ラグオルの大地に伏していた。
「エッ、エルノアさん!? あ、あれ……ここは? 遺跡は……」
顔を上げて身を起こし、ザナードは草と土の感触を手に立ち上がる。
微笑むエルノアも、自然な仕草で立つと、まるで人間のようにお尻を手で払った。
「僕達は遺跡で……あれ? おかしいな、記憶が……それよりっ!」
それより、なにより。エルノアが今、無事な姿で目の前にいる。
何より、やわらかな笑みを湛えている。
ザナードは混乱した。確かに自分は、エルノアの依頼を受けて、カレン達やモンタギュー博士と一緒だった。坑道でWORKSをまいて、遺跡へウルトを探しに赴き、そして――
「そして? やっぱりおかしい! なんで僕は、森に、地表にいるんだ?」
「それは……ワタシの仕業ですう。ワタシが、ザナードさんを、この場所に」
はにかみながら、エルノアが背中で手を組み、身を乗り出してくる。
「博士や皆さんも、ちゃんと無事ですう。ワタシが、助けておきました」
「そ、そうでしたか……よかったあ」
不意に力が抜けて、再びザナードはその場にへたりこんだ。
とりあえずは一件落着……ウルトのことは悲劇に終ったが、最悪の事態は避けられたようだ。疑問はあれこれ残ったが、先ずは何より、エルノアが無事だったことが嬉しい。マザーシステムとやらのことは結局解らなかったが、それでもザナードは胸を撫で下ろした。
「とりあえず、エルノアさんも無事で良かったです」
「……ありがとう、ザナードさん。ありがとう」
不意にエルノアが、涙を零した。
まるで人間の少女のように、自分でも「あれ、おかしいですう」と呟きながら、彼女はとめどなく泣いた。それを止めようと笑いながらも、決壊した涙腺から光の筋が頬を伝う。
「え、あ、お、そのっ! い、いや、ウルトさんのことは、残念でした……すみません」
「そんな、ザナードさんは悪くないですう。オネエサマは、精一杯生きたんですう」
慌てて飛び起き、慰めるザナードの手を、エルノアは手に取り頬を寄せる。ザナードは肌に、確かなぬくもりが滴るのを感じた。そのまま身を寄せられ、熱くなるのを自覚する。
自分の胸に顔を埋めるエルノアを、抱きしめていいものかと、ザナードの手は彼女の背後で、虚空に指を振るわせた。しかし、次の一言で、その浮ついた気持ちも霧散する。
「そして、ワタシも。ザナードさん、ワタシ、精一杯生きましたあ」
「……え?」
「だから、最後に、ご褒美。えへ、ザナードさんに会いたくて。でも、もう時間が」
「エ、エルノアさん?」
不意に、自分を呼ぶ声が、再び響いた。先程より鮮明に、それは近付いてくる。
「師匠……先生もだ! 僕を呼んでる。何だろう? 行きましょう、エルノアさんっ」
エルノアの手を取り、ザナードは声の響いてくる方向へと走り出す。
しかし、エルノアはしっかりとザナードの手を握り返しながらも、その場を動かなかった。不思議に思い振り返れば、ただ無言で首を横に振るエルノア。
「オネエサマもワタシも、精一杯生きました……ザナードさんのお陰ですう」
「エルノア、さん……何を、言って……っ!」
不意に、エルノアの背に翼が屹立した。それは幾重にも折り重なり、天使のように彼女を宙へといざなう。手を離すまいと駆け寄るザナードは、自分を呼ぶ聞き慣れた声が、確かに近付いてくるのを感じた。
輝く翼で、エルノアは少しずつ宙へ……天へと昇ってゆく。
「最期に、おわかれ、できて、うれしかったですう」
「そんな……エルノアさんっ! いやだ……僕は、いやだっ!」
「ザナードさんも、精一杯、生きて……ワタシの分まで、生き抜いて」
「エルノアさんっ!」
離すまいと手を握れば、エルノアも強く握り返してくる。
それでも、次第に指が解けて、二人の手は擦れ合いながら、静かに離れた。
同時に、ザナードの周囲の光景が、ラグオルの森が霞んでゆく。もう、発光するエルノアが眩しすぎて、何も見えない。白く塗り潰されてゆく世界のなかで、それでもザナードはエルノアを求めて手を伸べた。
その手が、何かに当たった。
「――ザナード、おいザナード! しっかりしろ! 死ぬな、死んだら殺すぞ!」
「落ち着いてください、ヨラシム。目が覚めたようです。……安心しました、ザナード君」
彷徨う手は、新陳代謝と回復力を促進する、緑色の溶液の中をかいだ。そして、硬質プラスチックの透明な外郭に、こつんと当たる。ザナードは今、メディカルルームの治癒カプセル内に、全裸で漂っていた。
意識が定まらない。
思惟が結べない。
ただ、呆然としてとりとめもなく、漠然として思考を象れない。それでも、朦朧としながら、霞む視界に見知った人達を認識する。粘度の高い溶液の中で、そのビジョンは次第に鮮明になってゆく。
剣の師匠ヨラシムと、作法をあれこれ教えてくれる先生のカゲツネだった。
「夢……を、見て、いた……? 僕は……あれ?」
「落ち着いてください、ザナード君。あの事故で重傷を負い、まだ混乱してるんです」
「事故? ……違う、あれは……エルノア、さん」
「こないだの、遺跡の謎の爆発にお前は巻き込まれたんだよ。何だって一人で、あんなとこに」
違う……一人ではなかった。ギルドを通した正式な依頼だった。……一人の少女の、切なる願いだった。ザナードは、動かせばその都度痛む身で、円筒上のカプセルの中でもがいた。
あのマザーシステムの暴走と、それによる異常フォトンの爆発。それは全て、事故として処理されたというのだろうか? 解らない……ただ、薄い透明な壁を隔てた向こう側で、心配そうに師匠と先輩が自分を見詰めてくる。それだけは確かなことで。それしか、今のザナードには感じられなかった。
「ああ、エルノアさん……」
「おいっ、ザナード! くそっ、カゲツネ、看護婦を呼べ! おいっ、こっちだ!」
「まだ容態が安定してないようですね。ヨラシム、兎に角落ち着いて」
ガンガンと壁の向こうを叩く、ヨラシムがカゲツネに引っぺがされる。その姿が次第にぼやけ、輪郭を失ってゆく。駆けてくる白衣姿も、その中に溶けてゆく。
再び意識を失うザナードは、瞼の裏にエルノアの姿を見た。
それは目をつぶって尚、溢れる涙で滲んで映った。