突然の寒気が運んできた純白は、ただただ深々と
だが、全てを覆い隠すような
クレーエは今、凍える寒さの中で帝国最後の騎士を……バルドゥール皇子の最後の一人を見守っていた。地に砲剣を突き立て、その柄に両の手を置き、黙ってエクレールは門前に立つ。これより先は、世界樹の巨人を封じた古の廃都。何人足りとも通せない。
それは、この場に残った僅かな兵や騎士たちにとっても同じだった。
「……来たか」
静かにエクレールが、伏せていた瞳を見開いた。
それは、クレーエが圧倒的な殺気に身を震わせるのと同時。決して寒さに凍えている訳ではない……幼少期より帝国の隠密騎士として、あらゆる環境下で戦ってきたクレーエの肉体と精神は屈強だ。だが、人一倍敵意と害意には敏感だった。
「エクレール、気をつけろ。……デカい
「あの男だな。安心してもらおうか、クレーエ。私が相手をしよう」
「了解だ、真にすまないが一緒に門を死守してくれ。冒険者たちに通る術はないと思うがな」
それだけ言うと、クレーエも周囲の者たちを見渡した。誰もが皆、覚悟を背負った瞳で頷き返してくる。ここに残った男たちは皆、誰ひとりとして生きて帰ろうとは思っていなかった。
例え母国を裏切り、帰る場所を失おうとも……皇子へ捧げた忠誠だけは譲れない。
「皆も、すまない! 俺はこんなことが言える立派な騎士なんかじゃない、闇に影にと汚れ仕事に生きる掃除屋騎士さ。だが……殿下に代わって感謝を。悪いが最後までつきあってくれ」
誰もが剣を抜き、武器を携えて門の前に並び立つ。
そんな敗残兵たちを脅かすように、遠くで灰色の空が稲光を無数に光らせていた。
そして、遠雷の轟きを背負って……冷たい覇気に身を凍らせた
冒険者は、
だが、その場に留まる誰もが感じて察した。
目に見えて迫る、初めてにして終わりをもたらすモノ……それは即ち、不可避の死だ。
「皆は下がれ! この男の相手は私がする!」
エクレールだけが、身も凍るような息苦しさの中で、冷静だった。
そう、男だ……この寒さの中、剥き出しの上半身は包帯だらけで血が滲んでいる。武器を持っていないところを見ると、印術師の類らしい。その足取りはふらふらと定まらないが、確実にクレーエたちを、煌破天ノ都へ通ずる巨大な門を目指して歩んでいた。
「止まれ、冒険者! ……やはりまた貴様か。何人たりともここは通さん。それ以上進めば、今度こそ命はないものと思え!」
凛としたエクレールの声が響き、続いて砲剣が鞘走る抜刀の音が続いた。彼女の唇も今は色を失って、白い吐息が金髪の周囲を飾る。
しかし、冒険者は立ち止まらない……険しい目元に氷河のような眼光を灯して、真っ直ぐにエクレールへと、その背後の門へと向かっていた。
クレーエはその男の顔に見覚えがあった。
仮にも一国の皇子に仕え、皇子の目となり耳となって諜報活動に動いていたクレーエだ。自然と諸外国の要人や著名人にも明るい。だが、そのことがかえって仇となった。
「エクレール、気をつけろ……奴は錬金術士だ。
――氷雷の錬金術士。
それは、半ば伝説と化した英雄の名だ。あのエトリアの世界樹を始め、世界中の迷宮や遺跡を踏破した男、それが氷雷の錬金術士ヨルン。数多の魔物を狩り、竜さえも倒した名うての冒険者である。
だが、倒す……食い止める。エクレールだけを矢面に立たせて、ただ見てるつもりもない。クレーエもまた静かに抜剣するや、他の者達とエクレールの背中へ駆け寄った。……筈だった。
「むっ、な、なんだ?」
「……影が、影が!」
「魔物か? いやだが、気配が全く無かったぞ!」
「クレーエ卿、後ろです!」
不意にクレーエの背後で、不穏な空気が立ち上がった。まるでそう、周囲にうっすら積もった雪さえ飲み込むような、漆黒の闇。それは兵たちのド真ん中で人の姿を象るや、滞留する冷気よりなお冷たい視線で兵たちを
誰もが金縛りにあったように、その場に釘付けにされてしまった。
そして、身も凍るような、心胆を寒からしめる声が低く響く。
「悪いけど、そこで見ててもらうよ。これはね、うん……夫婦の問題、だから」
凝縮された暗黒が喋った。それはあっという間に浸透して侵蝕、周囲の戦意を駆逐し、次々と古強者たちの心を圧し折ってゆく。目に見える恐怖が蔓延して、今にも
だが、エクレールは振り向かずにクレーエたちを一喝した。
「周りッ、私を気にするな! 騎士に多対一の戦いはない……そこのバケモノ、お前の相手もまた私と知れ」
「いや、それはないと思うよ……僕は、見届けに来た。友の長い旅が今、終わる」
その黒い影はそれだけ言うと、巧みに眼力で周囲を牽制し、誰の自由も許そうとしない。
クレーエもまた、その場で肝が冷えてゆく戦慄を味わうことしかできなかった。
そして、ヨルンは立ち止まる。丁度エクレールの十メートルほど手前……熟練の騎士ならば縮地の一歩で一瞬の距離だ。エクレールのドライブが届く射程ギリギリでもあり、言うなれば彼女の距離。それを知っているかのように、ヨルンは力なく立ち止まる。
やはりクレーエの目にも、あの伝説の錬金術士は手負いの獣のように見えた。
「これで三度目だな、冒険者……今日こそ決着をつけてくれよう。殿下の悲願成就のため、あらゆる障害は私が砕いて潰す! それにしても……哀れだな、氷雷の錬金術士とやら」
静かに構えるエクレールの砲剣が、甲高い
「さあ、幕を引くぞ……貴様には心底うんざりしている。殿下だけの私を妻などと……貴様は恥知らずな無頼の徒、根無し草の冒険者に過ぎぬというのに!」
「ああ、そうだな」
「フッ、貴様らのような者たちに私は、そして殿下は負けぬ! よって立つものを持たぬ者に私たちが負けるはずがない!」
「……そうか」
「救国の志を遂げる殿下の為……あの子の為にも、負けられぬ。これより先は死地と思え! 覚悟があるなら挑んでくるがいい」
「ああ」
不思議と今日のエクレールはよく喋る。
対して、ヨルンは静かに無表情の鉄面皮を崩さない。
だが、クレーエは確かに目撃した……こんな季節に降る雪よりも奇異な現象を。
「話はわかった、御託はもう結構だ。エクレール……いや、デフィール。……どうしてお前は、泣いているのだ?」
「な、なにっ! ば、馬鹿な……ハッ!?」
そう、エクレールが……魔女と呼ばれた騎士が、泣いていた。
その白い頬を一筋の涙が、光となって零れ落ちていた。自分でもそのことに気付けなかったエクレールは、頬を濡らす雫を手に動揺も顕だ。
クレーエも初めて見る。
あの、エクレールが……泣いているのだ。
「何故、涙が……くっ、これはなにかの間違いだ! おのれ、貴様! この私になにを……」
エクレールは籠手で覆った手の甲で涙を拭うと、激怒に金髪を波立てる。
ヨルンはただ、目の前で一撃必殺のドライブが放たれる、その瞬間が訪れようとしていても動かない。ただ、じっとエクレールを見据えて、その眼差しを注いでいるだけだった。
「騎士は、泣かぬ! 涙など心の弱さが見せるもの……私には無縁、そして不要だ!」
「……お前は泣いたことがないのか?」
「当然だ、冒険者! 私はバルドゥール殿下の、あの子の騎士! 涙など、涙などっ」
「お前はいつも、俺の前でしか泣かぬ女だったが……フッ」
その時、不意に雪が止んだ。
同時に、張り詰めていた場の空気が極限まで高まり臨界を迎える。
「安心しろ、デフィール……その涙、俺が止めてやる。……永遠にな」
「なっ……貴様ぁっ!」
両者は新雪に足音を刻んで、同時に必殺必中の間合いへと踏み込んだ。
クレーエは背後に立つ魔人のような黒い気配に全てを縛られたまま、決戦の火蓋が切って落とされるのを見守るしかできなかった。