ヒロの周囲を深い闇が覆ってゆく。巨大な魔物から発したガスは、あっという間に冒険者たちを分断し、その視界を奪った。
だが、小さく輝く光が一つ。
「うわっ! な、ななっ!? なんだ……ウカノ?」
そこには、文字通りガスを一蹴した少女の姿があった。高々と蹴り上げたその脚が、一発で衝撃波をぶちまけたのである。烈風の一撃をゆっくりおろすウカノは、自分でも驚いてはいた。
そして、その胸に真紅の宝玉が光っている。
「い、今、なにかが……でも、この力ならっ!」
ウカノは武の道を修めた、それなりの拳士である。それは知ってるのだが、今のは
目に追えぬほどの速度で、彼女は大いなる蟲獣に肉薄した。
まるで瞬間移動で、ヴァインやエイダードも言葉を失っていた。
「
ウカノは地鳴りかと錯覚するような、強力な震脚で敵の
今まで傷一つつかなかった恐るべき巨獣がよろめいた。
今の一撃は完全に相手の重心を崩し、その脚を封じた。
物理法則や質量差が現実感を失ってゆく。
そして、ヒロの背後でヴィラールがぽつりと呟く。
「まさか……あれは、
振り返ると、ヴィラールは普段以上に顔面蒼白で表情を失っている。どういうことかと訪ねようとしたが、ウカノの猛攻に魔物が悲鳴をあげている。
ヒロは今は、仲間たちを援護しつつウカノのあとを追いかけた。
だが、妙にその背中が遠い。
そして、駆けつけようとしているのに離れてゆくような錯覚が襲う。
「ウカノ、無茶はよすんだ! ……? な、なんだ? ウカノの尻尾が」
もはや分身とも残像ともいえぬ影をばらまきながら、ウカノは連続蹴りで大いなる蟲獣を追い詰めてゆく。炸裂する
そして、異変が加速度を増してゆく。
ウカノの目は今、血のように真っ赤に染まっていた。
狂気さえ帯びるかのような猛撃の中で、その尾が一つ、また一つと増えてゆく。
ついには、九尾の
今まで見せたことがないような、闘いに酔うかのような泣き笑いだった。
「あ、あれ……と、止まらない。わたし、止まれない……身体が! 嗚呼! ――愉悦、快楽、これが本当の力。あはっ! これでみんなを守れて、そして……」

ヒロは必死で走った。
その背をヴァインの射撃が援護し、すぐ隣にエイダードも来てくれる。
「走れぇ、ヒロォ! こいつぁただ事じゃないぜ。背中は任せな、後は見なくていいぜ」
「俺が援護する、まずはウカノを止めてやるんだ。少し力を借りるぞ」
エイダードが槍を構えて、ハイランダーの独特な呼吸で加速する。仲間たちの力を束ねて
エイダートは一気に加速すると、中央突破で大いなる蟲獣へとブチ当たってゆく。
暴走しつつあるウカノに
そこへヴァインのチャージショットが炸裂し、ようやくウカノは拳を止める。
「ウカノッ! 無茶をして……でも、無事でよかった! さあ、その石を手放すんだ」
「これは、ヒロのくれた……大事な,大切な、わたしの……わたしとヒロの」
「多分これ、ヴィラールが探してたものだよ! オレたちには過ぎたる力だ!」
「でも、ヒロを……みんなを、守れ、た、から――ふふ、なんだか喉が渇いちゃう」
明らかに普段のウカノとは違った。それでもウカノはウカノで、ヒロにとっては大事な妹分だ。その背を抱きしめ、戦いから一時遠ざける。
肩ごしに振り返るウカノは、増えた尾の間から緋色の視線をヒロに向けてきた。
「ヒロ、あ、あの」
「こんな暴れるだけじゃ駄目だよ、ウカノ。本当に心配した……身体は? 痛いとかは」
「――喉が、乾きました」
「へっ? あ、あの、ウカノ? ――!」
突然、ヒロの右腕に激痛が走った。
取り落とした拳銃に、ポタリと鮮血が一滴、また一滴としたたる。
ウカノは、普段より何倍も鋭い牙をヒロに突き立てていた。じゃれて遊んでる時とか、ネットゲームで寝落ちした時にヒロは噛まれたことはあった。それはいつも甘噛みだったが、今は違う。肉に食い込んだ牙は、骨まで断ち割ろうとするかのように激痛を呼んでくる。
思わずヒロは、必死でウカノを振り払う。
口元を手の甲でぬぐうウカノもまた、呆然とした表情で紅い目を丸くしていた。
「い、嫌……ごめんなさい、ヒロ。違うの、でも……美味しい。もっと、血を。……う、ぁっ」
「大丈夫、大丈夫だウカノ! オレは平気さ……さ、面倒な大ボスを片付けて帰ろう。みんなで、マギニアに」
「で、でも……わたし、なにがなんだか。とっ、とりあえずあれは片づけます! ヒロのために、みんなのために! ――目障リナ粗大ゴミハ始末シナイト、キャハッ!」
そこからはもう、一方的な
その主役がウカノで、すでに大いなる蟲獣は舞台装置でしかない。血濡れのヒロインが圧倒的な暴力で魔物を切り刻んでゆく。蹴りや手刀が全てを切り裂き、肘や膝での打撃はあっさりと敵を叩き割った。
そうして、エイダードやヴァインも苦戦する中で、一方的に戦闘は終わった。
断末魔の叫びをあげるこの迷宮の主は、崩れ落ちて自重で崩壊してゆく。
肩で息をするウカノは、一度だけヒロを振り返り、そして仲間たちを見渡す。
その紅い目は、その眼差しだけは昔のままのウカノだった。
だが、突然彼女は地を蹴り迷宮の奥へと去ろうとする。
「待って、ウカノ! 大丈夫、戻っておいでよ! オレはほら、かすり傷だし!」
「ヒロ……わ、わたし、もう」
「出会ったばかりの頃は、よく噛まれたよね。でも、大丈夫。一緒にマギニアに帰ろう」
「……無理ですっ! もう駄目……わたしは――ワタシハ血ガ欲シイノ。新鮮ナ血ガ」
「ウカノーッ!」
ヒロの叫びが虚しく響く。
すでに半妖の怪物と化したウカノは、泣いていた。意識が薄れる中で、ヒロは初めて彼女に会った時のことを思いだす。あの時も異世界におびえて泣いていた。そんな彼女を引き取って、引きこもり仲間が増えたと思ったことがある。
でも、ウカノは社会に順応し始めると、むしろ逆にヒロを外の世界へ誘った。
彼女の好奇心と探求心に、ヒロはどれだけ助けられたのかと思う。
「ウカノ、駄目だ……行っちゃ駄目だ。一緒に、帰ろう。一緒に……お互いの、故郷へ」
ヒロはそこで倒れて気を失った。
仲間たちの声も遠く、言葉の輪郭はぼやけて理解できない。
それでも、助けてくれるエイダードやヴァイン、ヴィラールの声だけははっきり聞こえていたのだった。どれだけ遠くても、どれだけ霞んでいても、確かに。