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 目の前にそびえる恐怖と、天上を埋め尽くす脅威。
 トゥリフィリは見開いた目に(まばた)きさえ忘れてしまった。
 ただ、血のように真っ赤な暴力の化身が、目の前で呼気を荒げている。(うな)る声と共に、むせるような獣臭が充満していた。
 そして、目の前の紅い巨竜の口から、ドサリとなにかが落ちた。
 それは、首から下だけになったキリコの死体だった。
 瞬間、トゥリフィリの全身の血液が沸騰する。

「サキ、さん……サキさん……あ、ああ……うわああああああっ!」

 抜き放つ雌雄一対(しゆういっつい)の銃が、主と一緒に絶望を歌う。触れる全てを貫き(ほふ)る弾丸は、虚しく竜の表面で弾き返された。それでも、トゥリフィリは絶叫しながら乱射の限りに走る。
 繰り出される爪が振ってきて、僅か一秒にも満たぬ過去の自分を殺した。
 さっきまでいた場所を、破壊の一撃が消滅させる。
 だが、トゥリフィリは夢中で走る。
 撃つ、乱れ撃つ。
 そのさなかで、滑り込むように少女の遺体を抱きしめた。
 これは、人の死に方ではない。
 そして、腕の中の死骸はどんどん冷たくなってゆく。

「お、おいっ、アンタッ! 危ない、逃げろっ! 上だ!」

 背後でノリトと名乗った少年が叫ぶ。
 既に、先程の飾って気取った口調ではなかった。彼自身もまた、ゴシックロリータの服を身に纏う金髪の少女を抱き上げる。
 (かな)わない。
 戦いにすら、ならない。
 突然東京の夜空を覆った、謎の生物……竜としか形容できぬ殺意。
 先程、その一匹を瞬殺したサキでさえ、殺されてしまったのだ。
 なんの抵抗も許されず、巨大な赤竜に喰われてしまった。
 トゥリフィリの本能が告げている。
 全身の遺伝子が覚えている。
 目の前の敵は、決して人類が(あらが)えぬ強大な存在……それが、わかる。
 サキを抱きしめたまま、その場にへたり込むトゥリフィリは見上げる。
 頭上に今、巨大な脚部が持ち上げられ、自分を踏み潰そうとしていた。
 耳元のインカムだけが、雑音混じりの声を響かせている。

『――フィリちゃん? おーい、トゥリフィリちゃん。聴こえて――かな? もしもーし』

 相変わらずこの状況で、オペレーターのカジカは呑気(のんき)な声音だ。
 だが、そういう空気を作って演じてる気配がある。
 先程の通信の時の、けだるげでやる気に乏しい声ではなかった。
 僅かに震えて(かす)れる、息苦しそうな声。
 それでもカジカは、自分を中心に平常心を広げようとしていた。

『今、そっちに――を向かわせたよん? はは、駄目だねえ……震えが――とにかく、脱出するんだ。こっちもちょっと――でも、ナツメさんも――』

 トゥリフィリの上に、死が降ってきた。
 空気を揺るがす竜の怒りが、自分を踏み潰さんと落ちてくる。
 思わずトゥリフィリは、背後でノリトの絶叫を聴きながら目を閉じた。抱きしめるサキの死体が、どんどん冷たくなってゆく。
 必死で強く抱き締めて、全身で(かば)うように動かないトゥリフィリ。
 わかっている、あの人はもう死んでしまった。
 そして、死体は周囲にも無数に散らばり、竜たちに(むさぼ)り喰われている。
 でも、理解できても納得しない、したくない。
 さっきまで一緒に笑いあっていた仲間だから。
 刹那、衝撃。
 激しい揺れの中で……恐る恐るトゥリフィリは目を開いた。
 そこには、驚愕の光景が広がっていた。

「あ、あれ? ぼく……死んで、ない。……えっ!? き、君はっ!?」

 目の前に、一人の少年が立っていた。
 トゥリフィリの足元には、彼が突き破ってきたであろう、巨大な穴が広がっている。コンクリートと鉄筋の天井をブチやぶり、彼は右の拳を高々と突き上げている。
 少年の腕が、拳が……竜の足蹴(あしげ)を押し留めていた。
 そして、彼は肩越しに振り返る。
 冷たい瞳は硝子(ガラス)のようで、なんの感情も映ってはいない。
 そして、端正な無表情が零す言葉にも、それは感じられなかった。

「保護対象、確認。援護しつつ撤退……戦術選択、行動開始」

 恐るべき剛力で、少年は竜の脚を押し返し、そのままさばいていなした。
 トゥリフィリの横に、轟音と砂煙が舞い散る。
 クレーターとなって周囲へ石礫(いしつぶて)が乱れ飛ぶ中……少年は身構えつつ見もせずに喋る。彼の冷たい視線の先には、怒りも顕な竜の眼光があった。

「警告、今すぐ死体を遺棄せよ。回収は不要、生存者を最優先」
「え……あ、あの」
「再警告。死体を遺棄せよ」
「だ、駄目だよ! 他のみんなだって……それに、えと……そういう場合じゃないの、わかってるけど。でも……こういうのは人の死に方じゃないし、人には(とむら)い方だってあるんだもん!」
「……理解不能、否定。条件付きで譲歩の余地あり」

 周囲の竜たちも騒ぎ出して、ぐるりとトゥリフィリたちを囲んでくる。ノリトなどはもう顔面蒼白で、その場にへたり込んでいた。
 そして、目の前では真っ赤な巨体が吼え荒んでいる。
 絶体絶命の中で、豪腕の少年だけが落ち着いていた。
 まるでマシーンのように冷静で、細身の身体からは想像もつかぬ力を溜め込んでいる。左手を探るように前へ突き出し、右手の拳を腰元へと引き絞る。
 洗練された構えは、恐怖も緊張も感じない。
 そんな中……不意に光が走った。
 空気中の水分が次々と凍って凝結し、無数の刃となって竜たちに降り注ぐ。致命打とは言い難いまでも、あっという間に敵意を下がらせた。恐らく、この力は……S級能力者の精神感応力がもたらすサイキックだ。高度な精神性と、それを制御する集中力。それは時として、自然界の物理法則すらも捻じ曲げる。過程を無視して事象に干渉し、自らの欲する結果を生み出すのだ。
 突然の援軍に、トゥリフィリは周囲を見渡した。
 そして、屋上の大きな給水タンクの上に人影を見る。

「やほほーい♪ 大丈夫かなあ? タケハヤが助けてやれっていうしぃ……にゃはは、今回だけだよん? ぶっちゃけ、関わりたくもないんだから。あの女のやることには」
「しかし、集められた者たちに罪はない。ここで死なせる理由もない訳だ」

 熊のような巨漢と、フードを被った華奢な女性だ。二人共、抜けるように青い服を身にまとっている。夜空の星さえ奪われたこの死地で、二人だけが蒼天を思わせる鮮やかさで色づいていた。
 そして、女性の手が振るわれれば、再度氷の一撃が降り注ぐ。
 二人は余裕さえ感じさせる会話を交わしながら、ちらりとトゥリフィリを見た。
 違う……トゥリフィリを守るように立つ、先程の少年を見たのだ。

「ねえねえ、ダイゴ。あれがタケハヤの言ってた奴じゃん? 切り札だって」
「だろうな。いい構えだ……だが、あれでは駄目だ。魂の篭もらぬ拳では、竜は打てない」
「まーた始まった、ダイゴの求道者トーク。それ、楽しい?」
「俺の生きる道だ、苦楽の話ではない。とにかく……この場をしのぐぞ、ネコ」

 筋骨隆々たる大男の名は、ダイゴ。そして、ネコミミのついたパーカーの女性は見た目通りネコと名乗っているらしい。
 二人は貯水タンクから飛び降りるや、真っ直ぐ竜の群れへと飛び込んだ。
 そして、先程のサキを彷彿とさせる、超人的な戦闘力を見せつける。人とは思えぬ力が、竜と対等に、それ以上に戦っていた。

「おーい、そこの(すく)んでるオチビチャン」
「は、はい! ぼく、だよね。えっと、ネコ、さん」
「そそ。いいから逃げなって。そのポンコツもあんまし調子よくなさそうだし」
「ポンコツ?」
「聞いてない? それ、人の姿をしてるけど――ま、いいや。逃げなって」

 その時だった。
 呆気にとられていたトゥリフィリから、振り返った少年がサキの死体をもぎ取る。抵抗する余裕さえ与えられぬまま、トゥリフィリは抱き締めてた仲間の遺体を奪われた。
 だが、慌てて手を伸べるトゥリフィリは見た。
 無言で少年は、サキの死体を肩に担ぐ。

「現時点で回収可能な遺体は、この一体のみと判断する」
「あ、ああ、うん……ありがと。って、ひあっ!?」
「要救助者も確保完了。退路を設定……非常階段を選択、退却実行」

 トゥリフィリはまるで荷物のように、ひょいと少年に片手で小脇に抱えられた。
 そして、キュイン! と小さな音を鳴らして少年は振り向く。
 既に非常階段では、ノリトが金髪の少女を背負って降りていくのが見えた。だが、そのあとを追いかける無数の竜が、あっという間に鉄骨を食い散らかしてゆく。ノリトは無様な悲鳴を叫びながら下へと消えていった。無事ならいいのだが、微かに絶叫する泣きべそ混じりの声が聴こえる。
 そして、トゥリフィリは改めて少年を見上げた。
 この状況下で眉一つ動かさない顔は、整い過ぎているのにやはり感情がない。
 彼は周囲を見渡し、ダイゴとネコの激闘を見て、走り出す。

「ね、ねえ、君っ! そっちは――ちょ、ちょっと待って! あの!」
「脱出経路、決定。これが最善と判断する」

 次の瞬間には……少年はトゥリフィリとサキの死体を持ったまま、屋上から飛び降りた。闇夜の中に既に、不夜城のような東京の街明かりはない。無限に続くかに想われる闇の中を、多種多様な竜が飛んでいた。
 その中を、少年は迷わず真っ直ぐ落ちてゆく。
 しっかりと細い腰を保持されながら、トゥリフィリはそのまま気を失ってしまった。

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