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 その一瞬は、永遠にも似て。
 トゥリフィリは今、数秒先の死へ向かって落ちていた。
 (たぐい)まれなる力を数多持つS級能力者(エスきゅうのうりょくしゃ)とて、超人ではない。常人よりも頑丈な肉体も、この高さから大地に叩きつけられれば死んでしまう。
 それにまず、息ができない。
 逆巻く風圧がトゥリフィリを包んで、呼吸を奪っていた。

「ん、ぐっ……んぎぎぎ、ぷあっ! ――ナガミツちゃん!?」

 その時トゥリフィリは、信じられないものを見た。
 ナガミツだ。
 ナガミツが、走って追いかけてくる。
 彼は垂直に切り立つスカイタワーの壁面を、真下へ向かって猛ダッシュしていた。あっという間にトゥリフィリを追い越すや、外壁を踏み割りながらの大ジャンプ。
 勿論(もちろん)、人型戦闘機だから飛べる、なぜなら戦闘機だから……という訳ではない。
 だが、彼は迷わずトゥリフィリを空中で抱き止めた。

「バ、バカッ! どうして」
「黙ってろ! 舌ぁ噛むぞ!」

 気持ちは嬉しい反面、驚きの行動に唖然(あぜん)としてしまう。
 ナガミツは斬竜刀(ざんりゅうとう)、人類の希望の一つなのだ。本人にその自覚はないだろうし、トゥリフィリもそう扱ったことはない。けど、なにより大事な仲間だった。
 自分の死に仲間を付き合わせてしまう。
 それは、どうしようもなく感情を決壊させつつあった。
 だが、不意に軽い衝撃が全身を襲う。

「あ、あれ? 今の……氷?」
「ジジィ! あと1.8秒しかねえ! よく狙って重ねろっ!」

 ナガミツの絶叫が、さらなる衝撃を連ねてゆく。
 トゥリフィリは、近付く地面との間に突如現れた、薄い氷の膜を何度も突き破った。その都度(つど)、落下速度が落ちてゆくのがはっきりと体感できる。
 これは、サイキックが生み出す魔法の氷壁だ。
 こんな短時間に無数の魔法を、この精度で重ねられる人間はそういない。
 フレッサは医務室で大忙しだから、おそらくは――

「ナガミツちゃん、これって」
「ああ、さっきアゼルのじいさんに連絡つけといた! 着地するぞ、掴まれっ!」

 トゥリフィリは言われるままに、思いっきりナガミツに抱き着いた。いつもと変わらぬ、固くて冷たいが頼もしい身体だ。そして今、彼は漆黒の地面へと着地した。
 衝撃波が舞う中で、小さなクレーターができあがる。
 少しよろけたが、ナガミツはトゥリフィリを両手に抱いてしっかりと立ち上がった。
 恐らく、何層もの氷を突き抜ける中で減速し、ナガミツの強度が耐えられるスピードになっていたのだ。とはいえ、あの高さだ……ムラクモ自慢の斬竜刀とて無事ではすまない。
 そして、不安は別の形でトゥリフィリへ恐怖を忍ばせてくる。

「なっ……ナガミツちゃん! このフロワロ、黒いっ!」
「瘴気を吸い込むなよ、フィー! 口元抑えてろ!」

 周囲に満ちてゆく赤い花は、フロワロ。
 その花びらは、毒々しいまでの闇に濡れていた。赤黒いフロワロは周囲一面に咲き誇り、既に強烈な瘴気を吹き出している。常人ならば一瞬で即死するであろう、圧倒的な濃度の猛毒だ。
 通常のフロワロならば、トゥリフィリたちには多少の耐性がある。
 もともとS級能力者は身体的な能力が常人より高く、免疫機能も強力だからである。加えて、竜災害と戦う中でフロワロに対する一定の抗体を得ているらしい。
 だが、今の周囲に広がるフロワロはまるで別物だ。

「ナガミツちゃ――ゲホッ! コホコホッ!」
「だーってろって。さ、帰るぞ」
「でも……ナガミツ、ちゃんが」
「俺は平気だ、大丈夫なんだ」

 ナガミツは歩き出した。
 既にもう、周囲はフロワロの黒に沈みつつある。
 そして、その邪悪な闇はナガミツの両脚にも這い上がってきた。あっという間に下半身が、瘴気の渦に包まれてゆく。
 ナガミツは、まるで米俵を担ぐようにトゥリフィリを片手で肩に乗せる。
 その時にはもう、ナガミツの半身がフロワロに侵蝕されつつあった。

「クソッ、なんだこれ……身体の、感覚が」
「ナガミツちゃん……あっ、あそこ! あそこにうちの車が」
「それとありゃあ、ジジイだな。おいおい、手間をかけさせんなよ」

 いつも13班で使ってるライトバンの近くに、アゼルが倒れていた。その矮躯は、徐々に(かび)が増殖するように黒く覆われつつある。
 それを抱き上げたのは、意外な人物だった。

「フィー! ナガミツも、こっちだ! はやく車に乗って!」

 アゼルを掘り出すようにして抱えたのは、キリノだった。
 見るまでもなく、彼は震えて(すく)み、全身を痙攣(けいれん)させていた。歯の根が合わないのか、喋る都度カチカチと音が鳴る。そして、要領を得ない言葉は自分を奮い立たせるための声だった。
 彼はアゼルを引っ張り上げたが、直ぐに右腕がフロワロの瘴気に覆われる。
 キリノは悲鳴を噛み殺して、どうにか車へとアゼルを運んだ。
 そして、ナガミツもトゥリフィリごとぶつかるように後部座席に突っ込む。

「車、出すよっ! ……くっ、右手の感覚が。で、でも、急がなきゃ」

 キリノは必死で車を走らせた。
 アクセルをベタ踏みされて、年代物のワゴンが地を蹴る。ホイルスピンの音さえ置き去りにして、どうにかトゥリフィリたちはスカイタワーをあとにした。
 だが、脱出できた訳じゃない。
 周囲はもう、見渡す限りに黒いフロワロが狂い咲いている。
 そして、隣の座席ではナガミツを異変が襲っていた。

「た、大変だ、ナガミツちゃん! 腕から……身体から、フロワロが!」

 あの黒いフロワロが、ナガミツの全身で芽吹き開花していた。
 それはまるで、ナガミツの生命(いのち)を吸い上げているかのよう。
 そして、車内にも徐々に瘴気が満ちてゆく。
 すぐにトゥリフィリは窓を開けて、ナガミツにしがみついた。よせと手で制するナガミツの、その鉄腕に今は力が全く感じられない。トゥリフィリはとにかく、無我夢中でナガミツから生えるフロワロをむしっていった。

「このっ、こんにゃろっ! ナガミツちゃんから生えてくるなんて! 駄目、絶対に駄目なんだっ!」
「よせ、フィー……これに触れるな。お前も、俺みたいに」
「今度はナガミツちゃんが黙ってて! ぼく、絶対にこんなの嫌だッ!」

 気付けば、トゥリフィリの目に涙が溢れていた。
 必死にこぼすまいとしても、(ほお)を伝う光が流星雨になる。
 あっという間に、トゥリフィリはぼろぼろと泣き出してしまった。
 それでも、自分の手が汚れて傷付くのも構わずフロワロを抜き続ける。
 弱々しい声が助手席から響いたのは、そんな時だった。

「……フィー、それは、いけ、ないね……ちょっと、いいかい?」

 アゼルだ。
 見れば顔面は蒼白で、伸べてきた小さな手にもフロワロが黒く咲いている。それでも彼は、必死に絞り出すように魔法を発現させた。車内の温度が急激に下がり、あっという間にナガミツの表面を氷が覆ってゆく。
 火炎や稲妻をも操るサイキックの精神力、その中でもアゼルが一番得意とする音は氷結の魔法だ。基本的に分子の運動は、熱量を上げるために加速させるよりも、熱量を下げるための停滞が難しいと言われている。氷の魔法は熟練の技が必要なのだ。
 首から下が氷に包まれると、ナガミツは少し楽になったらしい。
 そのまま静かに意識を失い、なにも言わなくなってしまった。

「アゼルおじいちゃん! ナガミツちゃんは」
「今は、こうするしか、ない……黒い、フロワロ……全てが未知で、驚異的だね」
「……さっき、真竜に会ったの。戦いにすら、ならなかった」
「そうかい? でも、僕は……君の、君たちの(たたか)いを見た。うん……見えたんだ……君たちは今も、闘って、い、る――」

 アゼルも力尽きたかのように、意識を失ってしまった。
 悲壮な敗北感を載せたまま、キリノの運転でワゴンは都庁へと走る。
 そしてこの日、人類は思い出した……この宇宙の摂理、真の支配者が誰であるかを。

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