ダンジョンと化した六本木ヒルズの、複雑に入り組んだ多元構造。
そこかしこで滴り落ちる、協力な酸性の毒液。
そして、酸の中から遅いくる異形の触手竜。
現時点でトゥリフィリは、即座に要救助者を保護しての撤退を決断した。
即決だった。
結局、最初の調査は数時間で終了、そのまま国会議事堂へととんぼ返りとなったのだった。
「無事に帰ったか、13班。フン、なにか成果はあったのだろうな」
会議室では、エメルが書類の山に囲まれていた。
日本全土がドラゴンに再征服され、日本政府は事実上機能停止している。それでも、ムラクモ機関は国の特務組織として正常に運営されていた。
なので、手続きに関する書類が自然と総長のエメルに溜まってゆくのだ。
机から顔もあげずにサインを走らせ、ペンが滑る音と共にエメルは言葉を続けた。
「どうだ、帝竜は倒せたか。いや、雨はまだ止んではいない。となれば」
「とりあえず、要救助者を一名発見、保護しました」
「……他には? まさか、それだけか?」
「いえ。えっと、ナガミツちゃん。さっきのあれ、持ってきてくれる?」
肩越しに振り返ると、ナガミツは「おう」とぶっきらぼうに応えて部屋を出ていった。
成果なら
それに、今のトゥリフィリには今回の戦いが見えてきつつあった。
国会議事堂が耐えている間の、僅かなタイムリミットは今も迫ってきている。
だが「急がば回れ」である。
最速で最善手を実行するためには、敢えて回り道を選ぶことから逃げてはいけない。
高く高くジャンプするためには、一度身をかがめることだって必要なのだ。
「エメルさん、六本木ヒルズでドラゴンと思しきものと戦闘になりました。それが多分、帝竜の末端……センサーユニットみたいなものだと思うんです」
「ふむ……ああ、話を続けろ。クソッ、どう計算しても配分する電力が足りん!」
「あ、あの、エメルさん?」
「続けろと言っている。独り言だ、気にせず報告しろ!」
いつにもましてエメルは不機嫌だ。
黙っていれば絶世の美少女、見目麗しい女の子なのに。
十歳前後の容姿で悪態を撒き散らしながら、エメルは数字や文字と格闘していた。
大変そうだなーと思いつつ、気を取り直してトゥリフィリは言葉を続ける。
「末端を倒しても意味はなさそうで、本体には全くダメージが伝わってないと思います。でも」
「でも? ああ、フン……
「はい。その触手部分からも立派に
丁度、ナガミツが戻ってきた。
その腕には、保存処理され専用の容器に収められた触手が入っている。驚くことに、まだ微かに動いていた。だが、
トゥリフィリは改めてそれをエメルに見せ、今後の展望を語った。
「このDzから、酸の雨に対する耐性を持ったアイテムが作れないかなって」
「なるほど? 考えたものだな……敵が使う酸の詳細が、その触手を調べればすぐにわかるだろう。中和の方法も、Dzを使えば処理できるかもしれん」
「はい。で、でも」
ここまでは計画通りだが、トゥリフィリには唯一の不安がある。
それは、そうした複雑かつ高度な知識と技術が必要な仕事を……いったい誰が行うかということだ。ワジたち職人の手を借りることも考えたが、未知のDzを扱うにはかなりの経験がなければいけない。
そして、唯一それを完璧にこなせる人間は、いまだ失意のドン底にいると聞いている。
「フィー、命令だ。すぐにあのバカを引きずり出してこい。ふんじばってでも作業させてやる」
「それは……やめてください。お願いします、エメルさん」
「つまらん感傷をこそやめろ、フィー。狩る者の使命を思い出せ」
にべもない言葉で、エメルには一切の迷いが感じられない。
そして、書類の山が片付けば本当にキリノの
そう、キリノの頭脳ならば敵の力を新しい武器に変えられる。
酸の雨を無効化できるアイテムがあれば、ダンジョンの探索も
「やめない」
「フィー? 貴様、話を聞いているのか」
「センチメンタルでも、やめない。それに、こういう気持ちはつまらないものじゃないと思います」
「クソッ! なにからなにまで足らん! 自衛隊に回す飯すらないのか! ……ああ、うん。フィーがそういうなら、まあ……そ、そこだけは撤回しよう」
ようやく手を止め、エメルは顔をあげた。
あどけない美貌が、疲れに陰っている。それなのに、大きな
「私はヒュプノス、滅びた民の
「前に、少し聞きました」
「私は憎しみ、憎悪が具現化した概念の結晶だ。だから……感傷というものを知らん。いたわりや慈しみ、そういうものはアイテルの分野だからな」
珍しくエメルが、少し寂しそうに笑った。
笑ったというには、歪めた口元の線が妙に硬い。
だが、似た者同士と言っても過言ではない少年が言葉を挟む。
「よう、エメル。あんた……自分が憎しみだけでできてると思ってんのか?」
「そうだ。そういうふうに生まれ直したからな」
「けど、どう育ったんだよ。どう生きてきて、誰となにをしてきたんだ? ずっとドラゴンと戦ってただけでも、毎日はよ、なんつーか……色々あんだろうがよ」
ナガミツの言葉に、エメルは目を丸くした。
そして、今度は愉快そうに鼻を鳴らす。
それっきりなにも言わずに、エメルは仕事に戻った。
背後で声がしたのは、そんな一連のやり取りが終わったあとだった。
「……僕にやれっていうのかい。今の、この僕に」
トゥリフィリが振り向くと、杖をついたキリノが立っていた。ユーモアがあって前向きでポジティブ、13班にとって家族にも等しかった男だ。それが今は、見る影もない……まるで亡霊のように、ふらふらと頼りなく佇んでいる。
だが、無理を承知でトゥリフィリは言葉を切った。
「キリノさん、お願いできますか? キリノさんにしかできない仕事なんです」
「僕は、もう無理だよ……右手もないし」
「……わかりました。無理言ってごめんなさい」
「無理強いは、しないのかい? 僕だってムラクモ機関の構成員だ、義務はある」
「ぼくは、ぼくたちは、いつだって弱い人、戦えない人のために戦ってます。そういうつもりなんです」
「そう、だったね……」
短い沈黙が両者の間に横たわった。
トゥリフィリは正直、本当に無理ならしょうがないと思っていた。あの厄介な酸を無効化できるなら、普段と同じ条件で戦える。あのダンジョンの最奥にて待つ帝竜は、酸の雨以上に強力な溶解攻撃を武器にしてくるだろうから。
そして、まだ微かな希望を信じていた。
信頼できる仲間の、絶望に抗う気持ちを信じているのだ。
「君はいつもずるいなあ、フィー。……ナガミツ、それを研究室に運んでくれるかい?」
まだ、キリノの言葉に力はなかった。
だが、その目にはようやく小さな光が灯る。
急がば回れ、本当に立ち直ってほしいからこそ