その建造物はかつて、栄華と繁栄の象徴だった。
六本木ヒルズ、それは東洋のバビロンと
ムラクモ機関はその発生源、帝竜反応をこの高層ビルで検知したのである。
そして今、地下道を駆使してトゥリフィリたちは迷宮へと足を踏み入れた。
「中は……まだ大丈夫みたい。気をつけて雨漏りを避ければ、なんとかいけそうだね」
賑やかだった六本木ヒルズのエントランスは、静寂に満ちていた。
上流階級とでも言うべき富豪たちの笑い声もなく、行き交う商社マンたちのせわしい足音もない。それどころか、生き物らしい生き物の気配が全くなかった。
虫や菌類といったものさえ存在を許されない、そんな錯覚さえ覚える。
そしてそれは、帝竜が迷宮化させたこの場所では、あながちないとも言えないのだった。
「フィー、ちょっとした水滴にも気をつけてくれ。髪や皮膚が
傍らのナガミツは、今日も全センサーの感度を全開にしてトゥリフィリを守ってくれる。普段より彼が慎重に見えるのは、やはりまだ肉体に不安があるからだろう。弟のカネミツから譲られたパーツの数々は、まだ完全にはナガミツに
だが、
ナガミツはだからこそ、実戦でのシェイクダウンを選んだのだ。
そして今日は、トゥリフィリにとって昔から慣れ親しんだ仲間も一緒である。
「んー、なんだかねえ。せっかくの景観が台無し。フィー、とりあえずわたしが前に立とう」
腰の剣に手を添えつつ、エグランティエが歩き出す。
その歩調は自然体で、警戒心も緊張感も感じられない。
それでいて、この異様な空気にさえ溶け込むかのような雰囲気……エグランティエは、
トゥリフィリも後方をナガミツに任せて、拳銃を手にあとを追った。
「ねえ、エジー」
「なんだい、フィー。っと、エレベーターは動いてないねえ。階段を探すよ」
「はーい。それでさ……こう、ちょっと……」
「はは、アダヒメのことかい?」
気心知れた仲のエグランティエには、お見通しだった。
ちらりと肩越しに振り返り、ナガミツが敵に備えている姿を確認。そうして、トゥリフィリは僅かに声を
だが、意外な言葉が返ってくる。
「ありゃ、虎だねえ」
「と、虎?」
「あればあるだけ飲む、飲めば陽気に歌って踊る。……まあ、多少は絡むこともあるかねえ」
「あ、ああ、お酒」
「悪い奴じゃないさ。悪意や害意を感じない。けど、無数の秘密を抱えている。秘密というか、見せても理解されない事象に溺れそう、ってイメージさ」
謎の美女、アダヒメ。
彼女は時折、全く理解不能な言葉を発することがある。どこか詩的で、それでいて切実さの滲む単語の羅列……アダヒメは精神も人格もしっかりしているし、ノリトと違って自分を演出するなどという意図はなさそうだ。
だが、時折アダヒメが酷く遠く感じるのだ。
「とりあえず、キリちゃんがちょっと心配かな」
「ああ、そりゃそうだ。キリ坊、タジタジになってたからねえ」
「でも、まんざらでもないって顔してた」
「男の子は、ああいうのが好きなのさ。年相応でいいじゃないか」
そういうものだろうか。
トゥリフィリにはよくわからないが、アダヒメが絶世の美女だということはわかる。あまりにも洗練された容姿は、頭に生えた狐耳さえも自然に見せてしまうのだ。
そんな彼女は最初、トゥリフィリのことを泥棒猫と呼んだ。
なのに、事情を説明したらすぐに謝罪してくれて、友達になってしまったのだ。
なんというか、現代においては驚くほどに素直で
「フィー、アダヒメは敵じゃない。けど……いつかはわたしたちが、あの子の味方になってやれたらいいんだけど」
「……もっと、話してほしいな。ぼくたちにわかる言葉で」
「なにか、重くて大きな秘密を抱え込んでる、そんな気がするからねえ」
同感だ。
そう思っていると、不意に隣にナガミツが歩み出てきた。
その表情は真剣そのもので、油断なく通路の先を見詰めている。
「フィー、エジーも。この先、生体反応……この熱量は人間だ。要救助者がいる」
「こんなとこでも、生きててくれた。よしっ! 急ごう」
雑談はここまでで、心得たとばかりにエグランティエが走り出す。
彼女の背を追えば、奥から悲鳴が響いた。
それはもう、言葉にならない絶叫だった。
三人は同時に加速し、疾走する中でいつもの呼吸を共有する。あっという間に、手慣れたフォーメーションで互いの隙を
そうして油断なく走れば、すぐに要救助者が見えてきた。
そして、その男性が絶体絶命の危機に晒されていると知れる。
「助けに来ました! 焦らずゆっくりこちらへ!」
「ひ、ひぃ……もっ、もぉ駄目だあ!」
「静かに、落ち着いて……大丈夫です、必ず助けますから。さ、ぼくたちの方へ」
男は、この六本木ヒルズにふさわしい身なりの男だ。壮年で
魔窟と化したこのビル内を、どれだけ
そんな彼を守るために、トゥリフィリは仲間と共に前に出た。
そして、見るもおぞましい異形へと銃口を向ける。
「な、なんだろ……えっと、触手?」
「だねえ」
「エジー、あれって」
「タコやイカみたいだけど、見てて気持ちのいいもんじゃないさ」
「あ、同感」
男性が追い込まれていた通路の区画に、白煙を巻き上げる酸の水たまりがあった。ちょっとした沼か池かというもので、そこから無数の触手が伸びていた。
植物のようでもあり、動物のようでもある不気味な触手だ。
ぬめりが光沢を纏って、緑色に明滅している。
「二人共、下がってろ。こいつ……こっちを敵と認識してるみてぇだ」
ナガミツの言う通り、中空でゆらゆらと揺れていた触手が、その先端をトゥリフィリたちに向けてくる。
視線を交わしただけで、すぐに三人は三様に行動を開始した。
まるで鋭利な刃のように、尖った触手の刺突が殺到する。
その全てをナガミツが両手で
トゥリフィリは両者の間で銃を歌わせ、弾丸を踊らせる。
妙な手応えを感じた時には、数本の触手がドクドクと脈打っていた。
「なに……? 太めのやつが、酸を吸い上げて――危ない、ナガミツちゃん!」
スプレー状に噴霧された酸が、トゥリフィリたちを襲った。
最前線にいたナガミツが、その直撃を受ける。チリチリと嫌な臭いがして、彼のトレードマークの詰め襟が煙に包まれた。
だが、僅かに顔の皮膚を焦がしながらナガミツは強く踏み込む。
その手が、伸びてきた触手を鷲掴みにして引っ張り上げた。
「こちとら急いでんだ、国会議事堂が溶けちまう……さっさと出てこいってんだ!」
片手でナガミツは、根こそぎ触手を引きずりあげてしまった。高い天井へと、酸の雨と共にマモノの本体が浮かび上がる。
その瞬間にはもう、ナガミツは空中へ
弧を描く回し蹴りの一閃が、まるで居合斬りのように触手を引き千切るのだった。