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 横殴りに叩きつけてくる、身を削るような豪雨。嵐の中にあって今、アズラエルはかぶった陣笠に手を添え烈風に抗った。立っているのもやっとの中で、彼は暴風雨の中心へと向かう。目指すはシキ国最奥の禁猟区、霊峰……その雲の上へ隠れた頂。霊峰と呼ばれるシキ国でも最大のこの山岳は、帝の勅令で建国以来禁猟区として定められている。
 だが、アズラエルは迷信よりも現実的な判断を優先し、必要ならば法をも破る判断力があった。
「しかしこれは……流石に限界ですね。今日か明日か、少なくとも近日中に奴を見つけねば」
 独りごちて、それが共用語でつぶやかれたことに気付くやアズラエルは苦笑する。遠く北海の辺境で育った自分がもう、今はずっと昔のよう。人との絆に飢えて強請った、幼い少年時代が遠ざかって久しい。昔のアズラエルは、希薄な自我に寂しさの詰まった人形だったのに。今は、自分で考え選択し、自分が守りたいもののためにそれを迷わず実行できる。
 だが、それが結果的に最愛の人を裏切り騙すことも厭わなかった、それが少し驚きだ。
「今頃キヨ様は怒っておいででしょうね……ふふ、私らしくもない。……む、風の流れが、集束する?」
 ずぶ濡れの装備は重く、背負ったランスが使い慣れた質量以上に感じる。それでも険しい山道を登るアズラエルの周囲で、渦巻く空気の流れが変わった。そして稲光を明滅させる空が割れ、一時風雨が弱まると同時に……巨大な古龍がゆっくりと舞い降りた。
 三獄の星龍が一角、荒天の嵐后……風神雷神の封印で柳の社に祀られし、アマツマガツチ。
 恐るべき異様にしかし、臆することなくアズラエルは武器を構える。霊峰の麓にベースキャンプを構えてより三日目、既に気力も体力も限界に近付き疲労が激しい。だが、北海育ちの屈強な狩人は、黙って絶対零度の瞳を獲物へと向ける。それは、いかなる状況でも狩りを完遂して生還する、その意思を宿したハンターの眼差しだ。
 咆哮で空気を震わし、アマツマガツチが舞い降りる先へとアズラエルは走り出す。
 その時、頭の中へはっきりと声が弾けた。
「無駄だ、人の子よ……哀れな定命の者よ。汝の力、決して龍に及ばず。ただその生命を散らすのみ」
 年老いた老婆のようでもあり、無垢な幼子のようでもあるその声。それは、僅か数度しか会ったことがないのに強烈な印象の、あの顔が無駄に近い少女の声ではない。だからアズラエルは、黙って返事もせずにアマツマガツチの浮かぶ空へ走る。
 頭の中に直接注がれる声は今、おぞましい響きで恐怖と恐慌をアズラエルにもたらそうとしていた。
 だが、泡立つ肌を凍えさせながらも、屈強な意思の力で恐れをねじ伏せアズラエルは馳せる。
「我には理解できぬ……自ら滅びへと走る汝等が。そう、遥か太古の昔……あの戦もそうだった」
 蔑み憐れむような声が続くが、構わずアズラエルは抜槍、同時に構えた盾に衝撃が走った。巻き起こる旋風が無数に渦巻き、小さな竜巻となって周囲に乱舞する。その幾つかが、ナルガクルガの鱗を紡いで束ねた盾を大きく削って吹き抜けた。嵐の中心へとしかし、じりじりとアズラエルは距離を詰める。見上げるは、妖しげな光に明滅しながら吼え荒ぶアマツマガツチ。
 ゆっくりと高度を落とすアマツマガツチの口から、強烈な水のブレスが放たれた。
 ステップで避けるアズラエルはしかし、余波に足を取られて大きくよろける。
「天の果てより星の海を渡り、この星に根付いて栄えし種の末路……その悲劇、しっとうや?」
 知った話ではないが、世界中の民話や伝承が伝えている。そのことに別段興味はないアズラエルだが、そうした文献や書籍を読むのが、そういえば友人のオルカは好きだったと思い出す。よくアズラエルはオルカと卓を囲んで共に茶を飲み、読書に耽る横顔を眺めつつ付き合って月刊狩りに生きるを読んだりしたものだ。アズラエルは技術書や実用書を好んだが、確かにオルカが厚意で貸してくれた何冊かは面白かったのも確かだと振り返る。
 そう、かつて世に千年の戦があった……人は今、それより過去を忘却の彼方に消した戦災を人龍大戦と呼んだ。今も世界中の遺跡や古塔にのみ僅かな名残を残し、完全に消えてしまった先史文明。その時代を生きた者達は、真っ二つに分かれてこの星を焼きつくす大戦争を演じたのだ。長きに渡る戦役は究極の兵器である龍を生み出し、そこから龍に対抗すべく竜が生まれた。龍と竜とが互いに食い合う、泥沼の戦争が続いた挙句に両陣営を疲弊させ、この星を汚して滅びへ誘った。
 そうした真実をアズラエルを含む今の人類は知らないが、断片的に神話となって伝わっている。
 アズラエルという名も、その中に出てくる忌み名だ。
 神話に登場する邪神の名をつけられ、幼少期のアズラエルは常に迫害された過去がある。
「三獄の星龍は、我等が陣営が世界回路を守護する要……その力は祖龍や蛇王龍に匹敵する。それを汝は――」
「先ほどから鬱陶しいのですが、黙っていただけませんか。興味のない話ですので」
 脳裏に響く声へと、初めて返事を吐き捨てて。同時にアズラエルは、烈風渦巻く嵐の爆心地へと地を蹴った。槍を構えてのチャージアタックで、走るほどに加速してゆく身を真空の刃が無数に切り裂いてゆく。カマイタチ現象はあっさりとユクモシリーズの天ノ型を千切って裂き、アズラエルの肉体へと新たな傷を刻んでゆく。
 しかし構わず走るアズラエルは、アマツマガツチの上に立つ全裸の女を見た。雌雄合一の肉体には今、下腹部に充血した強張りが屹立している。逆巻く髪は紅蓮の業火の如く真っ赤で、病的に白い肌とのコントラストが薄闇の中で輝いていた。それは、あの嵐の海でナバルデウスへと吸い込まれていった女の姿に重なり、僅かにアズラエルの足を鈍らせた。
 だが、躊躇を感じた次の瞬間にはもう、アズラエルは迷いを断じて再び加速する。
「三獄の星龍が一角、荒天の嵐后に挑むとは愚か……何がそうさせるというのだ、人間よ」
「貴女に答える筋合いは、ありま、せんっ!」
 左右から襲い来る豪風の渦を避けて、助走が臨界点に達すると同時にアズラエルは跳んだ。天へと浮かぶアマツマガツチへと、まっすぐに翔んでゆく。その頭部に乗る魔女の顔に、驚きの表情が浮かぶのが見えた。同時に彼女は、全身に禍々しい鎧を浮かび上がらせる。マグマの流れが具現化したかのようなその甲冑の上で、アズラエルの繰り出す槍が火花を舞い散らせた。同時に反動で崩れた体勢を疾風が襲う。とぐろを巻いて蠢くアマツマガツチの、天地に別れたアギトが見えた。
「いい一撃ぞ……だが、汝は最後の最後で躊躇した。今、全力ならば我の心臓は貫かれていた筈」
「……否定はしませんが、間違っているとも思えませんね。……ここまで、でしょう、か」
 アズラエルの胸中を一瞬、一人の少年の姿がよぎった。親友オルカが弟のようにかわいがっている、どこか少女然とした幼い少年だ。彼はハンターとしては未熟だが、一人の少女を愛して懸命に生きているのだ。そのことを思い出したら、不思議と必殺の一撃が芯を外した。鍛え抜かれたアズラエルの、乾坤一擲の突きならば……たとえあの黒龍の甲殻でさえ撃ち貫く筈なのに。
 重力に捕まり自由落下するアズラエルは、何度も風に煽られ風圧に強打される。
 アマツマガツチは餌をいたぶり嬲るように、幾度となくアズラエルを宙に弄んだ後、大地へと叩きつけた。身を震わせ立ち上がろうとするアズラエルは、面を上げて見上げた瞬間に戦慄と絶望に支配される。すぐ頭上で今、アマツマガツチの口からトドメの一撃が放たれようとしていた。
 ここまでかとも思ったが、同時に後悔も絶望もなかった。
 ただ、もうあの人達に会えないと思ったら、忘れていた温もりが頬を伝う。それは注ぐ驟雨に混じって止めどなく溢れた。
 死を覚悟した瞬間にしかし、スローモーションで迫る末期へと人影が割り込んでくる。
「アズッ、手前ぇはどうしていつも……ようやく会えたな!」
 雌雄一対の双剣を手に、クワガタの鎧を身にまとった姿が躍り出た。その手に踊る封龍剣は、音に聞こえし超絶一門……容易く迫る風を切り裂き、アズラエルに代わって超圧縮された水圧のブレスを真正面から受け止めた。
 アズラエルの前にその男は大の字で落下して這いつくばったが、すぐさま血を振りまいて立ち上がる。
 破損した兜を脱いだその姿に、アズラエルは大きく目を見開いた。
「あ、あんたは……! ウィル、ウォーレン・アウルスバーグ!」
 思わず郷里の言葉が出た。それくらい驚いた。
「おうよ。ったく、虫唾が走るぜ。手前ぇはいつもそうやって、一人でふらりといなくなりやがる」
 かつて二人は一時期、短い時間だが傭兵団鉄騎の仲間だった。ゆくあてもなく鉄騎に拾われたアズラエルは、僅かな間だけ団員だったのだ。その時、面倒を見てくれたのが団長や副団長、そして当時から百人隊長だったウィルだった。一時は深い仲だったこともある。だが、そうした温かさに自分の居場所を見出したあの日、鉄騎はケースDによる黒龍討伐で壊滅したのだ。
 そしてよそ者の忌み名持ちは、忌々しい不吉な人間として疎まれ恐れられ、アズラエルは自ら黙って消えた。
「ウィル! 無茶を……遥斗、ペイントは必要ない。ここで足を止めての決戦になる」
 ついこの間まで一緒だったのに、その声は懐かしさを連れて近付いて来る。声の主を思い出した瞬間には、肩を貸されてアズラエルは抱き起こされていた。見れば、王虫たるカブトのヘルムを脱いでみせる顔は、安心させるように微笑んでいる。その表情を見た瞬間、僅かな緊張が緩むと同時に、不屈の魂が再び満身創痍のアズラエルを屈強なハンターへと昇華させた。
「オルカ様まで。どうして……遥斗様も」
 オルカとは逆側の肩を持ち上げるのは、華奢な矮躯の少女だ。女性用のレイアシリーズを着てるが、すぐに遥斗だとわかった。彼はアズラエルを助けて支えつつ、アマツマガツチの上で腕組み睥睨する魔女を睨んでいた。
「アズラエルさん、回復薬を。オルカ、僕の分を渡しますので」
「頼むよ、遥斗。俺とウィルとで粉塵を用意してるから大丈夫。さあ、狩りの時間さ。アズさん、立てる?」
 問うと同時にそっとオルカが離れた。疑問形を装う声は言っている……立って、と願ってくれる。
 アズラエルはよろけたが、気遣う遥斗から回復薬を受け取ると同時に己の力で立った。膝がガクガクと笑ったが、しっかりと腰を落としてランスを構える。その先には今、かつて一緒に数多の狩場を駆け抜けた男の背中があった。
「よぉ、エルちゃん。よくもアズをやってくれたな……俺ぁ、別れた奴さえ大事でな。男女を問わねえんだよ、クソがっ!」
「汝の怒りは理不尽、そして不条理だ。合理に基づく論理の範疇を逸脱している。そのような理由で挑んでくるなど」
「それ以上、その体で喋るんじゃねえよ……!」
「くっ、封龍剣! またしても我に歯向かうか!」
 ウィルが地を蹴り風に舞った。その両手はさながら顎門を尾に持つ双頭の蛇。自由自在に動く対の切っ先が、風という風を切り裂きアマツマガツチへと飛んでゆく。後を追って走り出すアズラエルは、左右のオルカと遥斗に引っ張られるように加速を始めた。
「でもアズさん、よくキヨさんが許したね。心配させちゃいけない、生きて帰ろう! 遥斗も、勿論ウィルも」
「アズラエルさん、僕達で援護します。オルカから聞きました……ユクモ村とシキ国が第二の故郷だと。ならば!」
 だが、その時アズラエルは心の奥底に堰き止めていた真実を解き放った。
「……黙って来てしまいました。キヨ様に無断で。そうしなければ、止められてしまうから」
「ア、アズさん?」
「私はキヨ様に嫌われてもいい、それでも今……キヨ様の大事なものを守りたいのです」
 それだけ言い残して散開、三者は三様に転げまわる。先ほどまでアズラエル達が走っていた地面が、水圧のブレスで切り裂かれた。転げまわりながら武器を構えるアズラエルに、もう迷いはない。たとえ業を背負って遥斗に恨まれ憎まれようとも……愛する者の為に大事な場所を守る。そのためならば、魔女の命を奪うことにためらいはもうなかった。

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