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 弱々しい陽光が僅かに差し込む、深海の大広間が阿鼻叫喚に包まれた。
 背より潮を吹き上げ、海王ケトスは静かな怒りに躍り狂う。たちまちメビウスを海水の濁流が飲み込み、仲間達の声も四方に遠ざかる。呼吸を貪るように激流を泳ぎながらも、メビウスは神経を集中させて精神を研ぎ澄ました。
「氣を上手く練り上げれば……いけるっ!」
 身を捩って飛沫を巻き上げ、渦巻く水流と共に宙へと飛び出すメビウス。彼女はモンクの技としてその身に宿す氣を巧みに、繊細かつ大胆に迸らせる。頭上を悠々と飛び去る海王の目に、感嘆にも似た驚きの光が宿った。
「おじさま、メビウスさまが!」
「奴ぁ昔はドクトルマグスやってたからな。あれくらいの芸当はやってみせ――」
 荒波はいよいよ激しく空間を揺らしながら満ちてゆく。
 その波濤を今踏みしめて、メビウスは激震の海面を疾駆していた。もとより氣の扱いには慣れている……仲間のシノビが使う術もヒントになった。だから今、逆巻く水柱をその足で踏みしめ、その足が沈む前にさらに踏み込み駆け上がる。今、メビウスは水の上を走っていた。
「ほう、余程の鍛錬を……小さき者よ、素晴らしき余興となろうぞ」
「遊びでやってんじゃないんだっ! 海王ケトスッ、あくまで力で阻むというのなら!」
 跳躍。
 同時にメビウスは拳を引き絞り、大きく吸い込んだ空気を肺腑に留める。漲る血潮が丹田へと集いて、小さな拳に大きな力を与えた。ぼんやりと淡く光るその手を、力の限り振り抜くメビウス。
 だが、虚しく鉄拳は空を切った。
 その大きさからは想像もできぬ俊敏さで、ケトスはメビウスの一撃をいなして宙へ泳ぐ。
「隊長の攻撃を避けた!? あの図体で!?」
 驚愕の声を真下に聞いて、そのままメビウスは仲間の上に落下した。瞬間、あらゆる音が遠ざかり、深く深く水の底へと沈む。だが、次の刹那には遠のく意識が揺さぶられて、水面へと引き上げられていた。
「大丈夫ですか、隊長。俺に掴まって!」
「なんてスピードだ……攻撃が当たらない」
 すぐ側で銃声が響いて、数瞬の間をおき天井に小さく着弾が響く。立て続けに放たれたコッペペの銃弾も全て、偉大な海王の影にすら掠りもしない。
「おいメビウス! こいつぁまずい、まずいぜ」
「あの潮だ……ケトスは自ら、この不思議な海水で驚異的な回避率を叩き出している」
「まあ、ではメビウスさま、あの……」
 メビウスは周囲に集まりだす仲間達と共に歯噛みした。そうしている間にも水位はどんどん上昇し、見上げても見えなかった天井がその姿をぼんやりと晒してきた。同時に、いよいよケトスの猛威は乱れ狂い、その余波を受けて体力が削られてゆく。
 絶望的な状況下で凍てつく吐息を浴びせられ、メビウスは咄嗟に庇った目を見開いた。
「せめて、この水をなんとかできれば」
「前列を代われ、メビウス。私が突破口を開く!」
「あ、あの、おばねーさま。メビウスさまも。ええと、わたくし……」
 背後に憤るエミットの気配を察して、消耗したメビウスはそれを引き止める。同時に、仲間達の体力へと気を配った。ことさら気をつけるべきは、何やらされるがままで先程から小首を傾げているリシュリー。プリンセスの体力、ロイヤルベールを維持しつつ、メビウスは打開策を探して波間に天を見上げた。
「諦めよ、小さき者よ……深都への門を探したその罪、小さき命で贖うがよい」
「王よ! 真理を、真実を求めることが罪深いというなら、ぼくは罰から逃げはしない! でも――」
「よせメビウスッ! 奴の言葉に耳を貸すな。この暴虐さが王……もはや問答は無用っ!」
 一際大きな波が襲って、同時にメビウスは首根っこを掴まれた。そのまま後列へと引きずり戻された直後には、パーティそろって大津波に飲み込まれる。呼吸が奪われる中、メビウスは見た。
 猛るエミットがその手で抱いて守る、リシュリーへと不思議な光が集束してゆくのを。
 プリンセスの持つ数々の神秘が、その一端が凝縮された光芒となって爆ぜ轟いた。
「こっ、これはっ!? そうか、リシュリー、きみはっ!」
「はいっ、あの、スキルとかよく解らなかったのです。それで、この技に全部っ!」
 眩い光が周囲を包み、瞬く間に荒ぶる潮の流れを消し去ってゆく。プリンスやプリンセスだけが持つ、相手の異能や超常を打ち消す力……リセットウェポン。本来ならば取得するのみに留めるこの技を、こともあろうかリシュリーは意味もわからず極めていた。無知ゆえに真摯に。
 煌きの奔流がケトスを打ち、その身に初めてのダメージを刻む。
 同時に大地を取り戻したメビウス達は、僅かに覗いた勝機を逃さない。コンマの次にゼロがいくつ並ぼうとも、その先に希望がある限り諦めないのが冒険者だ。
「小さき者よ、足掻くか……しかし無駄、無謀、無茶! 諦めるがよい!」
「諦めが悪いのがオイラ達の取り柄でね。メビウスッ、今がチャンスだぜっ!」
 コッペペの早撃ちに動きを止めながらも、ケトスが再度頭をもたげる。再び潮を吹いて広間を満たし、その流れに乗って襲い来る構え。だが、
「同じ手は食わねぇ! 隊長っ、先制します!」
 全力で地を蹴るメビウスに先んじて、隣を駆け抜ける声が突剣をしならせる。メビウスが「タリズマン、頭っ!」と叫んで加速すれば、海賊特有の無形無型な剣技が巨鯨をくびりあげていた。
 タリズマンの剣が空間に光の線を引いて、大きく撓みながらもケトスを一瞬吊るし上げる。
 渾身の一撃に得意の潮流を封じられて、初めてケトスの潤んだ瞳に怒りの炎が点った。
「おのれ、小さき者共よっ! 何故解らぬ……我等が何故、この迷宮を閉ざしているか」
「語ってくれないから! だからぼくは問う、何故かと……なのにあなたは!」
 直後、巨大な白鯨の正中線をメビウスは捉えた。そのまま、渾身の突きを叩き込む。僅かに踏み込む足元が揺れて窪むが、構わず全力で正拳をメビウスはねじ込んだ。
 確かな手応えと共に、巨大な双眸がぐるりと裏返るのをメビウスは見た。
「見事! 小さき者、否……大いなる者よ。……我が友、深王よ。百年の禁は今、破られた」
「ここまでだっ! さあ、海王ケトス。もう無益な戦いはごめんだ……語ってもらう!」
「もはや我は言葉を持たぬ……我は王、海の王。深王の友にして同志。……故にっ!」
 その覇気も萎えて戦意も折れたかにみえたケトスが、不意にメビウスを弾き返した。そのまま、最後の力を振り絞るように身を翻す。
「汝等、小さくも大いなる者よ! 我が最後まで王であったと、友に伝え詫びて欲しい!」
 燦々と輝く瞳を燃やして、ケトスが最後に巨体を突進させてきた。特攻といってもいい。その爆発的な質量を前に、全力を出し切ったメビウス達は逃げ場を失い立ち尽くした。
 最後の最後まで海王は、自らが深都の番人であることに全てを賭けたようだった。
 だが、弟分に庇われつつ前に出ようとするメビウスは、不意に小柄な矮躯を放られ抱きしめた。
「――メビウス、リシュリーを頼む。……征くぞ、海王ケトスッ!」
「おっ、おばねーさまっ!」
 鋼鉄の甲冑が四散して宙を舞った。
 鉄壁の破片が重力に捕まり、落下するよりも速く。エミットが両手に槍を構えるや、蒼雷を纏って走りだした。一撃必殺の突きが稲妻を纏って、正面からケトスに吸い込まれてゆく。
「エミットッ! 勝敗は決した、もういい、もういいんだっ!」
 暗い光を灯して輝くエミットの眼を見て、メビウスは思わず手を伸べる。だがその腕をすり抜け、重装甲の軛を脱ぎ捨てた戦士が雷光となって馳せた。
 力と力の激突に、空気を沸騰させる断末魔の咆哮。
 全てが終わって静寂が場を満たした時、気付けばメビウスはリシュリーを抱きながら凝立していた。


「こ、怖ぇ……た、隊長、エミットさんが」
「そんなに嫌かねえ、王様ってのがよ。エミット女史! ……怪我ぁないかい?」
 タリズマンの蒼白な無表情を見て、自分も同じではとメビウスは思った。それほどまでにエミットの背は鬼気迫る勢いで、今しがた絶命したケトスから槍を引っこ抜いている。その血塗られた穂先が、クイと部屋の奥へ示された。
「……見ろ、メビウス。皆も……あの先に、扉が。きっと、その先、に、階段……が……」
 ぐらりよろけて、そのまま倒れこむエミットに誰もが駆け寄った。
 真っ先にその身を支えて抱きとめるメビウスは見た。エミットが指し示した広間の奥に、荘厳な作りで長らく閉ざされてたらしい、巨大で重厚な扉を。

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