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 奇跡は起きると信じていない。
 だが、起こしてみせると自分を信じていた。
 己と仲間だけを信じて戦ってきたメビウスの前で、奇跡は顕現した。グートルーネには血肉の通う人の身を……深王にはかつて王子サイフリートだった温もり溢れる記憶を。それぞれもたらし、二人の少女が掲げる白亜の供物は消えた。
「おお……我が愛しのグートルーネ。我には解る、そなたこそが」
「お兄様、わたくしの愛するお兄様!」
 二人はどちらからともなく惹かれ合い、誰もが呆気に取られて見守る中抱き合った。
 百年の時を超えて今、二人の兄妹は熱き抱擁を交わす。ただただ、相手の名を呼びながら。メビウスは意外な結末に安堵しながらも、自分の道を貫いた少女達へ視線を走らせた。
 ぐったりと倒れこむジェラヴリグは、傍らのリシュリーに支えられて辛うじて立っていた。その顔に疲労の色は濃いが、奇跡の価値を噛み締めるように微笑みはにかむ。
 だが、その時異変は起こった。
「! ジェラ、手が……どうしましょう!」
「っ! この痛み……血が、騒ぐ。これが……真祖の言ってた、刻まれし鍵」
 ジェラヴリグの右手の甲に刻まれた冒涜的な文様が、まるで生ある生き物のように蠢き出した。それはやがてぼんやりと光を放ち、中空に像を結ぶ。
 メビウスは咄嗟に駆け寄り、リシュリーと共によろめく矮躯を支えた。
 そんな一同へ降り注ぐ、冷たく曇った声。
「くくく、なかなかの茶番であった……どうだ人間。奇跡の味は」
「その声はっ!」
 メビウスは嫌に熱く汗ばみ苦悩するジェラヴリグを抱き寄せ、突如として現れた姿を見上げて奥歯を噛んだ。誰の目にも等しく、フカビトの真祖の姿が網膜に焼き付く。
 ジェラヴリグの手の甲から浮かび上がった真祖は、頬を歪めて醜悪な笑みを零した。
「これが人間だ、お前達人間のありようだ。世界樹に基づく種族……それがお前達だ」
「黙れっ、ジェラになにをした! この娘になにかあってみろ、ぼくはきみを許さない!」
「二つに引き裂かれた都を繋ぐもの、それは世界樹……そう、お前達人間は世界樹の申し子」
 真祖は怪しく光る瞳でメビウスをねめつけ眇める。
「我々フカビトが、崇める神の申し子であるように。……否、僕がそうあれかしと奉るように」
「……貴様一人がフカビトの総意でもあるまいにっ!」
 エミットの怒号が空気を震わせる。彼女は先程の闘いで負った傷をおして、ゆらりと立ち上がると叫んだ。だが、真祖の幻影はそんな彼女を一瞥して鼻で笑う。
「僕は今、真に王たる力を得た……そんな今、虫けらも同然の民草を憂う必要があるかい?」
「なっ……貴様ァっ! それが王たる者の言葉かっ! 許さん、誰が許してもこの私が許さん!」
 手負いのエミットは深手だった。それがメビウスにはよく解る……なにより手を下した本人だから。全身全霊、想いを載せた一撃を浴びせたのだから。それでも彼女は立ったし、宙にゆらめく不遜な真祖へと、一歩、また一歩と歩み寄った。その怜悧な表情は今、真なる敵を見つけて激昂に眉根を釣り上げている。
「時はきた……今こそ百年の眠りより覚め、我等が一族は神の祝福の元、この地を統べる」
「真祖、きみ達の神とは?」
 問うメビウスを見下ろし、ただ一言真祖は吐き捨てる。
「お前達にとっての世界樹、それと対なる存在が我等が神」
「ぼく達は世界樹に祈り願ったことはない! たとえ世界樹がぼく達を望んでもだ」
「知っているぞ、リボンの魔女……世界樹の叡智を知る者よ。確かにお前は世界樹に頼らない」
「そうさ、ぼく達は世界樹に頼らず生きていける。たとえ世界樹がぼく達の為にあったとしても!」
 それはメビウスの本音で本心、そして冒険者の矜恃だった。それを示すように、身を乗り出すコッペペや仲間達が強く頷いてくれる。冒険者とは、己の身一つで生きる無宿無頼の者達……何物にも頼らず、祈らず、何物も願わない。ただ己と仲間をのみ信じて、未知なる神秘へ挑むのみ。
「小気味良いな、リボンの魔女。ならば僕を止めてみろ……フカビトを地獄へ誘うこの僕を」
「真祖っ!」
「この娘が鍵……地獄の蓋を開ける鍵だ。待っているよ、リボンの魔女……フハハハハハ!」
 総身を震わせ怖気を走らせる哄笑を残して、真祖の幻像は掻き消えた。同時にふらりとジェラヴリグがリシュリーの腕の中へ倒れ込む。拳を固く握るメビウスは、心配そうに見上げてくるリシュリーの眼差しに強く頷いた。
 真の敵が姿を表し、二つの都を隔てていた百年の誤解が紐解かれた。
「王よ、深王! 今こそ真の敵は姿を現しました! フカビトが王、真祖……これを討つは正義!」
 エミットが声を荒げて血を吐きながら、深王へと進み出る。
 だが、その悲痛な声を受け止めるものは、もう既に王ではなかった。そこにはただ、愛しいグートルーネをその腕に抱く若者、サイフリートの姿があるのみ。
「深王、今こそご決断を! 私は深王代理騎士として先頭に立ちましょう! かの者達も、ソラノカケラの皆も力を貸してくれる筈です。今こそ、百年の戦に決着を付ける時」
 懇願するエミットの声を、ただ小さな呟きが遮った。
「……疲れた」
「は? 今、なんと? 深王! 真の敵が見え、真に手を携えるべき仲間を得たのです! 今!」
「深王、私からも申し上げます! 今こそリボンの魔女と、海都と手を組むべきです!」
 オランピアもエミットに並び声を上げる。だが、それでもグートルーネを抱きしめたまま、
「我は疲れた。グートルーネを思い出し、その身を得られた今……我の役目は終わった」
「なっ……何を申されるか、深王! 王たる者がそのような……貴方は真の王ではないのかっ!」
 エミットのすがるような、咎めるような視線から深王はマントの奥に逃げる。
 それでも尚、我を失うエミットの追求は止まなかった。
「王よ、貴方は自身を器と言われた。民の想いを満たす器だと!」
「我は確かに器……だが、万民の想いではなく、愛する者の一滴をこそ待っていたのだ」
「そんな……許されないっ! それでは深王よ、あの男と……父王と同じではないかっ!」
「許しを乞おうとは思わぬ。我はただ、グートルーネとの静かな暮らしをこそ望む」
 世界樹の叡智を武器に、百年の戦を戦い抜いてきた男の言葉ではなかった。唖然とするメビウスはしかし、深王を責める言葉も見つからない。目の前にいるのが、ただ利己的な愛に溺れる惰弱な王だとしても。もとより王たる者への依存がない彼女は、ただ一人の男としての望みを自然と受け入れていた。
 そう、受け入れていた……親しい者を傷つけるという冒涜への怒りと共に。


「……もうよそう、エミット」
「メビウス! これが、こんなものが王である筈がない! そうだろう、オランピア!」
 エミットは頭を抱えながらも、ただただ立ち尽くすオランピアに振り向く。
 深王の操り人形は今や、その糸を断ち切られたかのように瞳の色を失っていた。
「深王、いやサイフリート……貴方が望むなら、ぼくは静かな暮らしを与えるよ。でも――」
 メビウスはギリリと奥歯を噛み締めた。
 煮えたぎる怒りが言葉にならず、血潮が巡る四肢に満ち溢れている。ともすればそれは内側から爆ぜて、我が身を燃やしつくしそうに感じる。純然たる怒りがあってなお、メビウスにはそれを向ける相手が見つからない。フカビトを己の信仰の名のもとに率いる、真祖にすらそれは値しない。
 理不尽、そして不条理にメビウスは顔を歪めた。
「海都も深都も、もう貴方には関わらせない……それがぼくなりのケジメだっ!」
「よかろう、リボンの魔女よ。言えた義理ではないが、深都を――」
「海都の未来を、お願いしますわ」
 サイフリートとグートルーネは、互いを庇うように抱き合っている。
 ともすれば撃発しそうな怒りを、かろうじてメビウスは胸の内にとどめていた。それは彼女の強い意思がもたらすものであると同時に、彼女がこの地でずっと筋を通そうとしてきた相手を想う気持ちだった。
「……サイフリート様。私のことはもう覚えておられないのですね。私はこんなにシワクチャのおばあちゃんになってしまって。でも、サイフリート様が幸せなら……グートルーネ様と一緒なら」
 シワだらけの顔をさらにシワでクシャリと歪めながら、気付けばフローディアが笑っていた。その笑みはまるで、深い悲しみを包み隠すような微笑だった。だからメビウスは今、握る拳を振りかざすのをためらう。今すぐにでも自分勝手な二人の禁断の恋を、鉄拳制裁で正したいのに。
 メビウスがそういう気持ちをしかし、フローディアに義理立てして噛み締めていると……部屋の隅で確かに、ガチリと冷たい撃鉄の上がる音が響いた。

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