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 海底神殿の奥深く、満月の僅かに差し込む光を酒盃の中に弄びながら。玉座にしどけなく身を預けて、真祖は言い知れぬ高揚感に血潮を滾らせていた。まごうことなき闘争の空気は、最上級の貢物……供物。フカビトを創生せし神にとっても、それを奉じる真祖にとっても。
 はらからのはらわたと血糊の臭いが鼻を刺して、真祖は暗がりに目を見開いた。


「ほう、修羅の子が迷うたか。ククク、修羅は修羅道に堕ちて帰るがよいぞ」
 それは両手に二刀を構えた華奢な娘だった。その全身は返り血で濡れ、白い肌とのコントラストが月明かりに僅かに浮かび上がる。殺気と呼ぶには禍々しいまでの敵意が、細身のその身体から発散されていた。この修羅は角も牙も爪もない、人間の女、それも若い娘を形ばかりは象っているが。真祖にはその瞳にぎらつく狂奔を読み取り、恭悦からこみ上げる笑みを浮かべた。
 すかさず周囲に気配を殺していたフカビトの近衛が、やりぶすまを手に壁を作る。いずれも真祖復活の折に全ての氏族より集めたますらお揃い。一騎当千の剛の者だ。
「フカビトが真祖とお見受けする。素っ首、頂戴仕るっ!」
 月光が冴え冴えと輝かせるは、血に濡れた雌雄一対の刃。それを両手に、娘は迷わず歩を進めてくる。爛々と輝く眼は血走り、口元は身震いするような冷たい笑みで歪んでいた。だが、洗練された殺意そのものである彼女を、真祖は美しいと溜息をつく。同時にこみ上げる仄暗い欲望が、全身を這いずりまわって興奮をかきたてた。
 愚かにも単身、人の身でありながら玉座へと闖入して、己の首を取ろうという娘……その身を引き裂き辱めて、死ぬまであらゆる苦痛で嬲りたい。断罪の間より這い出てよりこのかた、昂ぶり続ける劣情と憎悪に真祖は身を乗り出した。
「生死にかかわらず犯せ。犯して八つ裂きに刻んで、愚かな人間達への晒し者とせよ」
 真祖を守る最精鋭の親衛隊達が、手にしたミスリル銀の槍を翻して娘へと殺到する。
 雄叫びと怒号に支配された玉座の間で、肉を断ち割り骨を砕く音を聞いて真祖は己の肘を抱いた。なんと甘美な響きだろう? 命の潰えるまでの一瞬を凝縮した、殺戮と鏖殺の狂騒曲。ゾクゾクと背筋を這い登る身震いに、真祖は唇を吊り上げ愉悦にひたった。
「ふむ、修羅の子も所詮は人か。……名前くらいは問うておくべきであったなあ」
 多勢に無勢の一方的な戦いが静けさを呼んだ。我先にと槍を繰り出し、狂ったように娘へ群がっていた男達の背中が止まる。あまりにあっけない終わりに、僅かに落胆して玉座に身を沈める真祖。
 だが、断末魔の金切り声を連鎖させたのは人間の娘ではなかった。
「トライマーチが将、はこべの子なずな推参っ! ……乙女の純潔、安くはないぞ?」
 次々とフカビト達の首が飛んで、天井へと勢い良く血飛沫が真紅の柱を屹立させた。
 まるで驟雨のように血が注ぐ中、平然と修羅の子が歩み出る。その身は羽織も擦り切れ傷だらけで、しかし危なげない足取りで玉座へ近付いてくる。真祖の首を狙って一歩、また一歩。凍れる美貌の死が、すぐ目の前まで迫っていた。
「ククッ、クハハハハハ! 面白いぞ、人間! 見事な余興であった。褒美に僕が、自らこの手で殺してやろう」
 真祖は言い知れぬ興奮と感動に後押しされて、足を振り上げた反動で玉座から飛び降りる。
 なずなと名乗った人間の娘は、油断なく二刀一対の剣を構えた。物怖じせぬその泰然たる姿に、ますます真祖は愉快な気持ちで無防備に踏み出す。
「お命頂戴」
「ようも一人で参ったものよ。なずなとやら、大義である。今ならネズミ一匹、見逃せるがどうか?」
「愚問! もののふ、さぶらいが誉と勲は唯一つ! 貴様の首級をあげて、海都と深都の未来を切り開く」
「これはまた……つまらぬことに命を捨てるのだな。よくもまあ、くらだぬことに命を燃やせる」
 真祖はその目で見た。自分の言葉に目の前の娘が激昂するのを。唇を固く噛み締め、なずなはまなこを大きく見開いた。守りを捨てた剛の剣、鬼神の力……狂戦士の誓いを朗々と謳いあげるや、なずなは大きく身を捩って剣を引き絞る。全身の筋肉が躍動して、圧縮された剣気がゆらりと小柄な身から陽炎のようにゆらぎたった。
 よくぞ人の身で練り上げたものぞと、真祖は嬉しく思う。これほどまでに鍛えられた人間をこれから、圧倒的な実力差で叩き潰すのだ。その瞬間、美しき修羅は絶望に突き落とされる。それは真祖にとって、この上ない快楽だった。
「いざっ、参る!」
 気高く吠えるや、なずなが地を蹴った。身を低く迫る影は、瞬く間に真祖の眼前まで迫り来る。
 音を裂く勢いで振るわれる刃に、真祖は真っ向からぶつかり……己の身に燻る暴力をわずかばかり開放した。たちまちその小さな矮躯から伸びる無数の触手が、躍りかかるなずなを迎え撃った。
 なずなは襲い来る魔の手をさばきながら、前へ前へと剣を振った。
「なにゆえそうまで戦える? 修羅の子よ」
「仲間が、大事な人がいる! その者のためなら死ねる、それがブシドーというものだっ!」
「献身か……つまらなんね。ほらほら、頑張らないと犬死で終わるよ? フフ、フ、フハハハハハ!」
「このっ、バケモノめっ! これしき……っ!?」
 神速の剣舞をかいくぐって、真祖の放った一撃がなずなを擦過した。
 思わず飛び退くなずなはしかし、一向に諦める気配を見せない。距離を取って踏み込む隙を伺う彼女に、真祖は醜悪な笑みでニタリと笑った。
「まだやるかい?」
「無論っ! この私が斬る、貴様の相手など……私程度で十分っ!」
「やれやれ……ならかかってくるがいい、修羅の子よ。……比翼の雛鳥よ」
 真祖の邪悪な微笑みが流血を迸らせた。
 再び剣を構えんと地を踏みしめた、なずなを襲う異変。彼女はよろめく自分に眉をひそめた。
「なん、だ……身体のバランスが。どうした私、なにが……う、あぁ」
 異変に気付いて、なずなが自分の右腕を見下ろす。
 それは今、愛刀を握ったまま床に転がっていた。
 絶叫。声にならない悲鳴が響いて、なずなは膝を突いた。真祖の一撃はいとも簡単に、なずなの腕を切り落としていた。
「いい声だ、もっと聞かせて欲しいね。次は両足を落として、残った腕も」
「う、うぁ……はあ、くっ! この私が、見えなかった。いつの間にっ」
「文字通り手も足も出ない姿へ貶めて、その柔肌に刻んでやろう……この僕に刃を向けた罰を」
 痛みに耐えながらも自分を睨む、なずなの姿に真祖は興奮を禁じ得ない。
「お前は生きたまま殺してやろう。この玉座のオブジェとして、その目で続く仲間の死を見るのだ」
「外道が……貴様ごときにメビウスが、私の仲間達が遅れを取るものか!」
 その時、なずなの強い眼差しが真祖の悦楽に水をさした。この状況下にありながら、まだ諦めていない。絶望に強い意志で抗うのそ瞳の光が、真祖にはたまらなく不愉快だった。
「どうした、もっと怯えろ! 竦め! この僕に恐怖しろ!」
「メビウス様っ、あそこになずなさんが!」
 今まさに、手負いの獣へトドメの手を伸べた瞬間。飛来する手裏剣を察して、真祖は背後へと飛び退いた。
 四人の冒険者が玉座の間へとなだれ込んできて、なずなを囲むように武器を構える。
「ちっ、仕損じたか……無礼極まるな、人間共。喰い頃の生娘と話すのは久々なんだ。邪魔はよしたまえよ」
「なずな、腕を……くっつくか? ええい、迷うな! くっつける! で……真祖っ!」
 一団の中に真祖は見た。なずなの腕を拾い上げるや、癒しの光をその手に灯すモンクの女を。それは、いつぞや自分を訪ねてきた、たしか――
「久しいな、リボンの魔女」
「くっ、出血が止まらない!」
「おやおや、呼んでおいてこの僕を前に……無礼であろっ!」
 真祖を睨みながらも、メビウスは懸命になずなの傷口へと力を注ぐ。
 その姿は真祖の癇に障った。酷く落ち着かなく、いらただしい気持ちがささくれだつ。声を荒げた真祖の発した力が、その身に宿した父にして母なる座を呼び起こす。
 醜悪な力が膨張して弾け、真祖の身はたちまち異形へと膨れ上がった。
「メビウス殿、真祖が――メビウス殿?」
「なずな、このバカっ。あ、ああ、ミラージュ。ちょっと待って」
 真の姿を開放して暴力の権化となった真祖は、己の身を前にいささかも動じぬメビウスに憤慨した。
 人の身の分際で今、神々しい真祖の姿よりも人一人の命なんぞを優先するとは! 激怒にも等しい感情が渦巻き、それは力となって発現する。筈だった。
 銃声に思わず、真祖は精神の集中を乱される。
「よぉメビウス、繋がりそうかい? しっかし右腕でよかったなあ」
 おどけた口調に緊張感のない表情だが、男が放った銃弾が真祖を牽制したのだ。
「わからない、けど血は止まる。命は助かる、助けてみせるっ! ……ん、なずなって左利きだっけ?」
「いやあ、女の子は左手の薬指を大事にせにゃあ。で、メビウス。大将、お怒りみてぇだぜ?」
「ああ……待たせたね、真祖。ぼくがここに来た意味、きみならもうわかっているはずだ」
 メビウスはようやく処置を終えると、シノビの娘にあとを任せて真祖に向きあった。
 凛とした眼差しが勇気を灯して、巨大な姿にふくれあがった真祖を見上げてきた。
「いま一度だけ問う、真祖よ! フカビトにどうか、人との共存を訴えて欲しい!」
「この期に及んでまだ囀るか、リボンの魔女よ。我等は争う運命、互いのどちらかが滅ぶが必定!」
「……ならぼくは、その理不尽と不条理を打ち砕く!」
 覚悟を叫んでメビウスが拳を握り、その構える姿に呼応して彼女の仲間達も武器を向けてくる。
 真祖は、自分を恐れぬものをこそ恐ろしいと感じた。今すぐ倒さねばならないとも。修羅の子がそうであり、自分を断罪の間から解き放った子供達がそう。そして、眼前の冒険者達がそう。
 真祖は忘れて久しい異能の力を総動員して、周囲のエーテルを貪り食いながら恐るべき力を顕現させた。
 おどけた口調に緊張感のない表情だが、男が放った銃弾が真祖を牽制したのだ。

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