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 禍々しい瘴気に場の空気が澱んでゆく。荘厳な玉座の雰囲気は今、陰鬱で凍えた闇へと放り込まれた。
 メビウスは拳を握って瞳を見開き、目の前に浮かび上がる醜悪な巨躯を見上げる。
「我は真祖……讃えよ、父にして母なる座を!」
 轟雷が迸り、氷雪が吹き荒れる。その恐るべき異能の力の顕現に、仲間達の噛み殺した悲鳴をメビウスは背中で聞いた。しかし臆することなく駆け出せば、たちまちその身を焔の壁が幾重にも遮る。
「っとお、気をつけろメビウス! こいつぁ、複数の状態異常攻撃が混在してやがるっ」
「ミラージュ様、号令を……先陣はわたしが跳ねます! コッペペ様は後詰を」
 コッペペの言葉にかぶさる弾んだ声音が、二つに分身する気配を拾う。その瞬間には、拳を引き絞るメビウスの耳を号令の声が打った。静かな、しかしよく通る声色が浸透してきて、身体の奥から力が湧き上がる。同時に、文字通り転げるように攻撃を避けつつ肉薄するメビウスは、その隣へミラージュと並んで馳せる姿へ声を荒げた!
「なずなっ、きみはもう無理だ! 傷口が開くっ、次に出血すれば命も危うい!」
「無茶も通せば道理が引っ込む! メビウス、今こそ命を燃やす時……燃やし尽くすっ」
 二刀を手に跳躍するミラージュを追って、怪我人とは思えぬ疾さでなずなが躍ぶ。隻腕の女剣士は愛刀を残る手に握りしめ、もう片方の剣は口にくわえていた。そのままメビウスの踏み込みを導くように、ショーグン達の苛烈なる剣技が咲き乱れる。
「ククク、足掻いてくれるな人間! そうでなくては面白くない……さあ、命を燃やせ! 血を流せ!」
 既に異形と化した真祖の声が、頭の上から降ってくる。その高慢で恭悦に振るえる言葉に、メビウスは奥歯を噛み締め拳を振り抜いた。巨大なその身の中心線へと、力の限り一撃を押し込む。
 ――だが、手応えが弱い。
 ミラージュやなずなも剣にそれを感じたのか、続く追撃の太刀を戸惑っているようだった。
「ミラージュ、なずなも! この大きさだ、どこかを集中して狙わないと――」
「我等が神への贄となれ……我はフカビトを総べしモノ、神の代理たる至高の存在」
 真祖の脈打つ総身が、一際強くブルリと震えた。途端に無数の触手が音もなく伸び、それは無限軌道で幾重にもメビウス達を取り巻いてくる。繰り出される一撃はどれも、受ければ致命打になりかねない重さで五人の冒険者達を襲った。
 仲間を案じてなにかを叫んだ、その時メビウスは後頭部に鈍い激痛が走って意識が飛んだ。
(まずい……今まで戦った魔物とは段違いの強さだ。これが、真祖の力。これじゃあ)
 僅か一瞬の刹那、遠のく意識がメビウスに一人の同業者を思い出させた。それは普段通りの怜悧な無表情を、どこか悲しげに陰らせている。長身痩躯を重装甲で包んだその姿は、今この場で一番欲しい守りの術を凝縮した手練のファランクスだ。時に共に、時に敵同士、そうしてメビウスは瞼の裏に浮かぶ彼女と進んできた……この世界樹の迷宮を。
(どうしてそんな顔を? ああ、そうか。ぼくは――)
 自分でも自分の意識が肉体から引き剥がされたと知った、その時にはメビウスは強い意志で己を揺さぶり起こしていた。僅か一秒にも見たぬ瞬間の意識喪失だったが、我が身へ意識を押し込め覚醒するや、激しい痛みに抗いながらメビウスは叫ぶ。
「ヨタカ、ぼくと一緒にみんなの回復を! 体勢を立て直すっ ――コッペペ!」
「あいよぉ! 出番だヨタカちゃん、みんなを頼まぁ! オイラが時間、稼いじゃうよん?」
 荒れ狂う真祖へと斉射三連。火打石を続けざまに火花で飾って、コッペペの早撃ちが僅かに真祖を怯ませる。それでも勢いは止まらず、その荒ぶる魔手はぬめりと腐臭を伴いメビウス達の頭上を覆った。メビウスの、なずなの、そしてミラージュの上で触手の先が鋭く尖る。瞬く間に驟雨のように、無数の刃が降り注いで冒険者達を削ってゆく。
「くっ、ミラージュ殿! メビウスを……私が退路を切り開く!」
「なずな殿、その怪我では。今はしのぎ耐えるが上策、勝機はいつか必ず」
「それまで私の身は持たない。……既にこの身体、半分死んでよう動かぬ。かくなる上は――」
「莫迦を申されるなっ!」
 珍しく声を荒げてミラージュが叫んでいる。メビウスは血と汗にまみれて逃げ惑いながらも、必死で癒しの術を紡いで前線の二人へと注いでいた。今日はサブクラスでモンクの術を会得したヨタカもいてくれる。彼女も手数を二倍に増やした分身で手伝ってくれるが、三人がかりの回復はそれでも真祖ただ一人の猛攻を前に追いつかない。
 ふと込み上げる弱気が、全滅という言葉を脳裏に浮かび上がらせる。
 だがメビウスは、絞り出すような全力の施術に身を震わせた。
「なずなっ、捨て鉢と捨て身は違う。ここはしのいで反撃の機会を、糸口を待つよ!」
 呼びかける声が、三種の激しい属性攻撃の奔流に飲み込まれた。再び蒼雷、業火、そして煉獄の息吹に身も凍る。
 未だ真祖の肉体には傷ひとつなく、そのわななき蠢きながらも膨らんでゆく邪悪な肉体は今、メビウスを冷ややかに睥睨していた。まるで嬲る獲物に舌なめずりするかのような、愉悦を含んだ淫らな視線を感じる。
 絶望的な状況でしかし、メビウスは咄嗟に視界の隅を影が疾駆するのを見た。
「なずなさんっ! ミラージュ様も……今、お助けしますっ」
 背後で印を組んだ指を交差させたヨタカが、自分の写身を強く前へと押し出した。その身から命の半分をもって受肉した生身のシノビが、オリジナルのヨタカから離れてメビウスの横をすり抜けた。メビウスを含む前列の三人を包み込むようなヒールと共に、その痩身は腰の短刀を引き抜き乱れ狂う触手を切り払ってゆく。
「ヨタカッ、突出し過ぎちゃ駄目だ。いかに分身と言えど、それもまたきみだから」
「ご安心を、メビウス様。……ミラージュ様は、ミラージュ様だけはやらせないっ」
 ヨタカの背へと手を伸べたメビウスは、放られたなずなの身を抱き取った。元より治療で止血したのみで、既になずなは息も荒く絶え絶えだ。その身にはびっしりと脂汗が浮かんで、それでも剣を離そうとしない。そんな彼女へ治癒を施しつつ、メビウスは二人で背に背を合わせて真祖の猛攻をさばく。
 なずなはメビウスの背中を守り、メビウスに背中を預けて奮闘していると言えた。その切っ先は徐々に持ち味の鋭さと荒々しさを失いかけている。意識が朦朧としているのか足元がおぼつかないが、それでもフラフラとメビウスに殺到する凶刃を弾き返す。
「くっ、血が足りない……この身ではもう全力は出せないっ」
「焦っちゃ駄目だ、なずな。いいね? ミーラジュ、ヨタカも!」
 そして最後尾のコッペペへも注意を払う。今や玉座の間に満ち満ちた殺気そのものの真祖は、その胃袋に落ち込んだ哀れな五つの食物を消化するかのように襲い来る。メビウスはなずなと共に防戦一方ながら、徒手空拳で猛攻を弾いては術を紡ぐ。ミラージュとコッペペにもそれぞれヨタカが付き添い、二人一組で体力の維持に努めていた。
 だが、この防戦一方の攻防は決壊する……その予感は悲しいほどに確か。
 そしてメビウスは、打開する術も持てぬままその瞬間を迎えた。
「くっ、メビウス! ヨタカさんが」
「なずなっ、集中力を切らすな。……ああっ、ヨタカ」
 それは前線に送り込んだ半身、分身だったとしても。身を割り血飛沫を上げる姿は、紛れもなくヨタカそのものだった。その無残な光景をすぐ傍らに見て、ミラージュの顔から血の気が失せてゆく。
「あ、ああ……ヨタカ? どうして。私を、庇ったのか?」
「ミラージュ、様……大丈夫、です。こっちは、分身、だから……」
 メビウスは見ていた。ミラージュと共にチャンスを油断なく伺いながら、ヨタカは迫り来る真祖と切り結んでいた。その二人の死角から襲った強烈な痛撃を、彼女は身を呈してミラージュから逸らしたのだ。
 そして、シノビの奥義である分身は強力だが、分身が受ける痛みは本体の術者へも貫通する。
 背後ではコッペペの隣で、ビクンとヨタカが身を反らす。術者へ見えないダメージが反動となって襲ったのだ。
「お、おお……ああ! ああああっ!」
 ミラージュが膝をついて両手の剣を手放した。彼の手の中に今、胸に抱いたヨタカが滲んで消えてゆく。慟哭に慄えるミラージュの血涙が、端正な顔立ちに凍った頬を濡らしていた。
「こんな、こんなことがっ……私はもう、失わぬと。なにも、なにものも……それがっ!」
「弱いな、リボンの魔女。弱いな、人間。失わぬ? 嗤える話だ人間。失うなにものも持たぬ宿業の民よ」
 真祖の嘲笑するかのような声と共に、トドメの一撃が集中する。それは、消えゆくヨタカを抱きしめるミラージュを刺し貫いた。
 ――かに、見えた。
「許せぬ、許さんっ! 許さんぞ……許しておかぬ! 己すら許せん、許せるものかっ!」
 殺戮の余韻を楽しんでいた真祖の、その巨体が不穏に揺れた。そこから伸びる刃が切り裂いたかに見えたミラージュの姿が、メビウスの視界からも完全に消えている。だが、泣き叫ぶかのような声を喉の奥から絞り出して、彼は常軌を逸したスピードで攻撃を回避していた。そして今、メビウスとなずなの側で血の涙に濡れている。
 その手からヨタカの分身が完全に消えるや、彼は背の長大な太刀を手に取った。真祖とはまた別の邪気が、顕になる刀身から吹き出し陽炎のように揺らめく。妖刀ニヒルは刃紋に不気味な明滅を浮かべながら、ミラージュの命を吸い上げるように瞬いていた。


「ミラージュッ! 落ち着くんだ、ヨタカは無事だ。コッペペの隣にいる、だから」
「斬る……叩っ斬る!」
 捨てた鞘が床に転がるより早く、地につくより先にミラージュは駆け出していた。
 瞬発力を爆発させる背中へと、なずなが剣を放る。
「使われよ、ミラージュ殿っ!」
「なずな殿、かたじけないっ! ……真祖、貴様だけは生かしておかぬっ」
 まるで箍が外れたかのように、二刀を振るうミラージュが風になった。その人知を超えた無双の太刀筋は、残像をメビウスの眼に刻みながら次々と触手を切り落としてゆく。
「くっ、ここにも修羅が……いや違う。この様、既に悪鬼羅刹か。人間風情が!」
 初めて真祖が焦りを見せた。ミラージュの気迫が圧倒的な力を弾き返していた。
 崩れ落ちるなずなにあとを託され、気付けばメビウスも最後の勝負へと身を押し出した。

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