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 光さえ届かぬ深海にも似た、常闇の最下層。世界樹の深奥に今、戦いの剣戟が響き渡る。
 樹海地軸のほのかな灯りだけが、不気味な明滅で輝く迷宮内に温かく光っていた。
「姉貴っ、次が来る!」
「おうっ! 押し返すぞ……ここは守る、死守だ!」
 弟の声を聞いて、ラプターは鎧を鳴らせて駆け出す。既に押し寄せる魔物との戦闘は、半日もの間耐えることなく続いていた。だが、まだまだラプターには余力があったし、仲間達の顔色も明るい。
 三竜の試練を乗り越え、神竜でさえ認めた力が冒険者達には宿っていた。
 なにより、ラプターの背にはずっと守るべき者が立ち続けていたから。
「ラプター、イーグルも。この場所は絶対に落とされてはならない」
「御意! 我が君、お下がりを……敵は全て墜とします」
 クフィールは少ない五人の面々で、よく樹海地軸を守っていた。その統率力は、一国の将たる指揮官の器に感じられてラプターは嬉しい。自らが戴く王は、自らをただの人だと常に言う。そして、もはや王家王族のあるべき姿を必要としていないとも語るのだ。そんな彼がしかし、いつでも高貴な義務に自ら率先して飛び込んでいく。その隣に並んで走れる栄誉が、ラプターを最強の騎士へと昇華させていた。
 ラプターは巨大な戦斧を手に、仲間達と前に出る。
 弟のイーグルは言わなくても、すぐにクフィールを守護すべくその傍らに残った。
「いい主を持ったな、ラプター。……本当に王たる器は、実はすぐ側にあったのかもしれない」
 近付く獣の咆哮と、遠雷のように響くけたたましい音。そのドロドロと近付く足並みを聞きながら、ラプターの隣でエミットが小さく呟いた。自分もそう思うが、同時に違うとも言い切れる。
「違うぞ、エミット殿。我が君はただ、静かに暮らしたいだけの穏やかな方だ」
「ああ、そうだったな。もはや故郷もなく、しかし散り散りの身内へ安息の地を探しているのだったな」
「そうだ。だからわたしは戦う。我が君がいつか、一族を招いて安らかに暮らせる未来のために」
 クフィールには夢がある。それをいつかラプターは、語ってもらった日のことを思い出していた。
 すでに国はなく、それを取り戻す野心も野望もない。ただクフィールには、世界に四散して逃げ延びた同胞を案じる気持ちだけがあった。血の繋がった一族郎党に、せめて新たな故郷を与えてやりたい……それがクフィールが抱くささやかな夢。それが叶うならば、日がな一日汗にまみれての農民でもいいし、山野に分け入る暮らしも厭わない。そんな王族や権威とは対局にある世界を、クフィールは望んで探し、なければ作ると決意したのだ。
 ラプターもいつしか、同じ夢をみるようになっていた。騎士を目指して鍛えたこの身が、守るべきものを得たのだ。
「だがラプター、戦の誉と勲こそが騎士の華だ。平和な暮らしを望めば、その刃はむしろ仇となる」
「わかってるさ、わかってる……わたしはでも、それを望んでいる」
「ほう?」
「もし我が君が平和な場所を、平和な時間を得られたなら。わたしという刃は、雨露に濡れて錆びてゆけばいいのだ」
 意外そうにエミットは目を点にして、それから優しく微笑んだ。ラプターは初めて、この年上の屈強な騎士が柔らかな表情を見せたことに少し驚いた。だが、今はわかる……憧れて目指し、時には対峙したこともある仲だ。それが今、同じ場所に並んでいる。
 だから、仔細を語ることに躊躇いはないし、むしろ聞いて欲しい。エミットにこそ言葉で伝えたい。
「だが、我が君が求める約束の地にたどり着くまで……我が君と仲間のためにわたしは戦う。全てを賭して」
「騎士の矜持を得たのだな、ラプター。ならば私も死力を尽くそう」
 微笑みを交わして、頷きを拾いあった。
 瞬間、漆黒の暗闇が淀む通路の奥から、敵意と殺意が殺到した。


「征くか……遅れを取るなよ、騎士ラプター。私達の手で未来を切り取る!」
「ああ! みんなが静かに眠れる日まで……わたしは負けない! 絶対にだ」
 荒れ狂う獰羊が大挙して襲来した。それを正面から、たった二人で受け止める。この魔物の瞳には凶悪な呪いが封じ込めてあり、眼光に竦めばたちまち石化してしまう。本来は頭を封じて戦うのが常識だったが、今のラプター達にはその時間すら惜しい。こうしている間にも魔物の軍勢は増え続け、その一部が冒険者の命綱であるこの樹海地軸を狙っているのだ。
 樹海地軸を失えば、ラプター達冒険者は二度と陽の光を拝むことなく地の底に沈むハメになる。
「くっ、アイツは何やってんだ、この忙しい時にっ! エミット殿っ、三匹抜けた! 頼むっ」
「承知っ……ここより先は一匹たりとも通さん。樹海地軸は、私達が守る!」
 あまりに多過ぎる魔物の数は、次から次へと首をはねるラプターの横をすり抜けてゆく。まるで何かに追われて怯えるように、半狂乱で魔物は樹海地軸を目指していた。ラプターが捌ききれぬ数をエミットがフォローして、鉄壁の守りで押し返して駆逐する。
 さながら修羅のごとく槍を振るう二人に、魔物達は原初の恐怖を感じて野生の本能から身動ぎした。
「あの男もまた信頼できる騎士だ。私にはわかる……一人で通路のあちら側を支えている」
「そうだったな……わたし達も負けていられな――っ!?」
 鍛えぬかれたラプターの直感が、危険を察知してその身を揺り動かした。咄嗟に身を投げ出しつつ、突出してきた魔羊のはらわたを抉る。血なまぐさい体液がどろりと溢れ出て、ラプターの白銀に輝く鎧を黒く汚した。むせるような死臭を振り払うように、そのまま横薙ぎに周囲の魔物ごと吹き飛ばす。
 だが、避けても避けきれぬ致命打がラプターの身を捉えていた。
「貴公、腕が」
「構うな、エミット殿! 気遣い無用、このまま……押し切るっ!」
 自分でも痛手だとわかる、わかっている。だが、流れはこちらにあるとも勘付いていた。戦は勢い、流れが肝要。例え利き腕をやられたとしても、このままラプターは戦闘継続を望んだ。勝機を見出し、戦斧を振るう手が感覚を失ってゆく中で猛り荒ぶ。
 魔物の群れを一掃したところで、ラプターはどっと溢れ出た汗に凍えて膝をついた。
「大丈夫か、ラプター! その腕を見せてみろ。今、別のパーティからモンクを」
「いや、いい! イーグルが管理してる道具や薬でなんとかなるさ。ここは定数、五人で守ってる。まだいい方だしな」
 既に腕の手応えは消えた。
 僅かにその見に眼光を浴びて、ラプターの右腕は石化していた。
 だが、気遣うエミットをやんわりと押し返して、ラプターは再び立ち上がる。幸い、硬化して動かなくなった手はまだ得物を握っている。その感覚はなくとも、自らが鍛えて頼りにする己の腕だ。まだ戦える……戦い抜く。例えこの身が全て石と化しても。
「わかった、止めはせぬ。だが、貴公は後列に下がれ。その槍ならば容易に届く。私が前に立とう」
「はは、エミット殿。それは無理な相談だ。わたしは、あんたの隣にいたい。共に並んで戦いたいんだ」
 エミットはそれ以上なにも言わなかった。ただ、ラプターの隣で盾を構えて身構える。その視線の先を目で追って、ラプターも身体に鞭打って盾をかざした。
「……あれは手強いぞ、ラプター。しっかりついてこい」
「おうっ! たしか、あの邪龍は恐ろしい技を使うらしいな。エルトリウス殿が前に言っていた」
 二人の前に、巨大な七つ首の龍が巨体を揺すっていた。その恐るべき姿が今、通路を占拠して迫ってくる。
 雄々しく気勢を叫んで、ラプターは盾を前に突き出し突貫した。一瞬でも速く、一秒の間も惜しんで距離を潰さなければいけない。肉薄して敵の攻撃を封じる必要があった。なぜならば、この邪龍はあらゆる厄災をばらまく死の呪いを持っているから。
 右手が痛い、痛みも感じない筈の石化した腕が幻痛を走らせる。
 だが、ラプターは歯を食いしばってエミットについていった。エミットは同じく、縮地の如き突進で少し先を飛ぶように馳せる。全くラプターのことを気にかけない、全力全開のチャージ。それがラプターには嬉しかったし、ついていける自分が誇らしかった。
「頭を潰すっ!」
「接近戦に持ち込めばっ! ……ここから先は通行止めだ。我が君が、仲間が帰る道だ。絶対に渡さないっ!」
 即座に邪龍の七つの首が、七通りの攻撃パターンを無数にからませ織り交ぜて襲い来る。その一撃が全て、受け損じれば即死という恐るべき攻撃力だ。ラプターは徐々に重くなってゆく身体を叱咤して、一つ首を切り落とす。また一つ、しかし先程より手応えがない。自分の身体に腕から入り込んだ石化の呪いが、身を蝕んで這い上がる気配に凍えた。
 だが、恐くはない。この身が動く限り戦う、そういう裂帛の意思でラプターは叫んでいた。
 しかし無情にも、邪龍はラプターの動きが鈍いと知るや、エミットを無視して攻撃の的を絞ってくる。
「……ラプターはやらせはしない!」
「エミット殿! わたしに構うな、これはチャンスだ……奴を!」
「クフィール殿が安らげる場所は、その隣にこの娘が必要なのだ! 騎士は……退かぬっ!」
 ラプターの瞳は、その目はスローモーションで全てを捉えていた。既に半数を失った邪龍の首が、牙をむき出しに唾液を散らして襲い来るのを。その全てをディバイドで引き受けて、自分の前にエミットが立ちはだかるのを。
 だが、激し衝撃と共に金属音が金切り声を歌って、それだけがラプターの耳朶を打った。
「遅れて申し訳ありません。他のパーティと連携を取っていました。お怪我はありませんか? レディ」
 カラン、と乾いた音を立てて、騎士の兜が床に転がった。
 ラプターを庇うエミットの前に、シュウシュウと白煙を巻き上げる鋼鉄の騎士が立ちはだかっていた。
「遅いぞ、貴公。だが助かった。トーネード、状況は」
「この先でシンデン殿とガイゼン殿のパーティが苦戦しております。あの触手、追えば追う程に逃げるようで」
 この逼迫した状況の中で、トーネードの声は優雅で典雅だ。落ち着いたその声音に、ラプターは安堵が込み上げる。
 そして、ここにもまた一人尊敬し敬愛する騎士がいたのだと悟る。
「さて、ワタシはレディ達と大事なお話があります。……退場して頂きましょうか、無粋な魔物には」
 トーネードは赤い血を流していた。機械の身体で生きるアンドロといえど、百年前に地上を離れた人間に過ぎない。二人を庇ってダメージを負った彼は、涼やかな笑みと共に剣を走らせた。一閃、光よりも速い一撃が、ぞぶりっ、と一度に全ての首を薙ぐ。
 トーネードが剣を鞘に納める、そのパチン! という音と共に邪龍は崩れ落ちた。
「向こうが苦戦か。わかった、私が後詰に回ろう。トーネード、ラプターと地軸を頼む」
「お任せを。存分に戦働きをなさいませ、エミット殿。ご武運を」
「うん。では、征ってくる。ラプター、下がって少し休め。この戦、まだまだ続こう……だが、最後にする」
 ラプターの頷きが最後になった。だが、自分を軽々と抱え上げるトーネードの、その発熱した全身が今は温かく心地よい。小気味よくリズムを刻むモーター音に包まれて、石像へと落ちてゆきながらラプターは見送った。迷宮の奥へと遠ざかるエミットを。

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