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 クアン・デライトは今、船上の人となって風に身を洗っている。雲海の波間を飛ぶ気球艇は、白一色の波濤(はとう)を静かに巡航していた。
 タルシスのカーゴ交易場で順次就航した気球艇が、風馳ノ草原(カゼハセノソウゲン)の探索を飛躍的に発展させていた。今ではこの広い平野のあちこちに、冒険者達は停滞に淀む空気を振り払って船出する。
 クアン達トライマーチの一行が駆るこの船は、新造されたばかりのカーゴ級弐号艇だ。カーゴ級気球艇はグルージャがもたらした虹翼の欠片によって実用化され、初号艇は彼女達ヴィアラッテアの足として一足先に空へあがっている。クアンは今朝方、ヴィアラッテアのギルドマスターを任されたポラーレが、四苦八苦しながら船名を捻り出すのを見ていた。
 栄えあるこの空の最初の翼は、エスプロラーレという名が与えられていた筈だ。
「星々を渡る天の川(ヴィアラッテア)の風に、探求(エスプロラーレ)の帆を張る訳か」
 あのポラーレという人は、意外と詩人なのかもしれないとクアンは甲板の手すりに両肘を置く。人間ですらない錬金術の集大成、禁忌(きんき)の技で造られた生命体なのに。それなのに、なかなかどうして気の利いた名前だ。もしかしたら、別の誰かが彼に(ささや)いたのかもしれないし、その可能性の方が大きい。
 少なくとも、ついと首を巡らせ振り返る先の少女達よりは、随分とセンスのいいネーミングだと思う。
「しつけーなあ、姫。ぜってーコイツの名前は"理励狩・美苦斗李威号(リリカル・ビクトリーごう)"がいいって!」
「エレガントではありませんし、かわいくありませんの! わたくしは"ポコちゃん一号"がいいですわ」
 クアンの義妹(いもうと)は今、先日ギルドに加わってきた少女と額を寄せている。あの少女はどうも、トライマーチの以前からのメンバーの一人らしい。クアンも驚いたが、なんとラミューと同じ境遇の(からだ)だ。大学でも長い間前例を探して勉強を重ねてきたが、まさかその全てを放棄して帰った故郷の地で、雌雄同体の半陰陽(はんいんよう)に出会えるとは。夢にも思わなかった好機だが、今は研究への興味よりも保護者としての喜びが込み上げる。
 妙にガサツに育ってしまってるが、同年代と楽しそうに喋る義妹の姿には心が安らいだ。
 だが、その会話の内容については、いささか疑問を感じずにはいられないが。
「いいかあ、姫。こいつはそもそも弐号艇だ。タルシスで二番目に造られた船なんだぜ?」
「知ってますわ。最初のはグルージャやメテオーラが使ってますの」
「な? だから"ポコちゃん一号"はおかしいだろ。大体なんだよ、ポコちゃんって」
「見た瞬間、ひらめきましたの……この子はポコちゃんですわ」
 訳がわからないが、相応にして年頃の少女というのはクアンのような世代には未知の生物だ。同年代の女性だって、全く理屈が通じないように思えることがある。もっともそれは、都会で研究一筋だったクアンが異例なのだが。十代の少女達は小さなことにも大いにこだわり、一生懸命にお喋りをやめない。その中にラミューの笑顔があって、それがなによりも嬉しい。
 そうこうしていると、隣にすらりと長身の麗人がやってきた。
 鎧で身を固めて盾を持ち、腰には巨大な長柄の鉄槌をぶら下げている……城塞騎士(じょうさいきし)、フォートレスだ。
「連れ同士も仲がいいようで、私も安心している。ラミューはいい()だな、クアン」
「ありがとうございます、そう言ってもらえれば。ただ、もう少しおしとやかだといいのですが」
 見上げるクアンを今、優しげに(まなじり)を緩ませ目を細めた女性が見詰めていた。彼女の名はエミット、先程からラミューと賑やかな少女、リシュリーの保護者だ。聞けば姉にして叔母という、とても複雑な家族関係だという。だが、二人が接して言葉を交わす姿は、いつでもクアンには家族の絆を感じさせた。そして、二人の家の名が遠く大国の王家を示すものだという知識を心の奥にしまい込む。
 それでもやはり、医学の道に志を立てた者として、一言聞かずにはいられない。
「あの、エミットさん……失礼を承知でお聞きします」
「……リシュリーのことだな? 私も風呂場では驚いた。あの子と同じ境遇の者がいるのだな」
 セフリムの宿に落ち着いたエミット達と、先日合流してクアンは正式にトライマーチのメンバーになった。ラミューが半ば強引に参加を表明して先走ったため、放ってはおけず後を追った形だ。そこで知ったのだが、ダンサーのリシュリーもまた、ラミュー同様の数奇な運命(さだめ)の元に生まれている。
「王家の血は古く特殊でな。あの娘は色濃く受け継ぎ過ぎた故に、あの躰を」
「そうでしたか」
「最初は私も随分と悩んだものだがな。母である我が姉はでも、あの子を祝福している。ならば私も想いは同じ」
 自分も気持ちは同じだとクアンも心に結ぶ。
 同時に、ラミューの不思議な生い立ちに一つの予想が立つ。もともと世界各地に散らばる王族達は皆、古くからの血を紡いで継承することで権威を保ってきた。必定、王家に異能者が生まれるという話は後を絶たないし、王の血にはなにか不思議な力があるのだろう。だとすれば……リシュリーと同じ身体的な構造を持つであろう義妹もまた、どこかの王家の落とし子なのだろうか?
「ラミューは昔、父が迷宮(ダンジョン)で拾ってきた子なんです」
「ふむ……捨てられていたのか」
「魔物が渦巻く迷宮内で、赤子がどうやって拾われるまで生き延びたのか」
 クアンは父ワルター・デライトの言葉を思い出す。自分に妹を拾ってきてくれた男は、タルシスで一番の冒険者だった。その彼が迷宮で見つけたのは、(あか)い不思議な素材の布地に包まれた赤子。周囲に人の姿はなく、代わって守るように甲冑姿の亡骸(なきがら)があったという。その遺体の傷み具合からみて、随分と長い間赤子は放置されていたと推測されたが、ラミューは異常なまでに強靭な生命力ですくすくと育った。
 唯一、男女の性を併せ持つという肉体を除けば、普通の少女と変わらないのだが。
 それでも剣を習わせれば卓越した運動神経と身体能力を見せつけ、父を驚かせたものだ。
「案ずることはないぞ、クアン。あの娘はお前の妹、違うか?」
「……ええ。僕は彼女の、兄でありたいと。そう、決めてますから」
「なら、あの娘の力になってやることだ。……時に、その、できれば医者としての助言が欲しいのだが」
 甲板の上ではしゃぐ妹にして姪を見やって、僅かにエミットが声色をひそめる。
「リシュリーももう17なのだが」
「ラミューとそう歳は変わらないんですね。……えっ!? じゅ、17歳なんですか!?」
「やはり驚くか。うむ……その、どういう訳かその、身体の成長が少し遅れているような」
 ラミューの前で朗らかに笑う華奢(きゃしゃ)矮躯(わいく)は、健康的に日焼けした小麦色の肌が眩しい。だが、その露出過多なダンサーの装束が魅せつける肢体は、驚くほどにフラットだ。年頃の娘ならば、柔らかな丸みを帯びて、二次性徴特有の女性らしさが出てくるはずなのだが。これも男女の機能が同居している弊害だろうか?
 だが、クアンは知っている。同じ境遇のラミューは、自分の義妹は……一目で知れる超絶健康優良児、肉付きのいいナイスバディだ。
「まあ、そこまで心配はしてないのだが。さて、リシュリー!」
 きゃっきゃと歓声をあげる少女へと、エミットは歩み寄っていった。船の名前を一生懸命考える二人は華やいで、どこにでもいる普通の女の子のよう。その輪にエミットが加わると、三人よれば(かしま)しさも一際だ。
 そんな時、船尾で舵輪を取る伊達男が歌うように声をあげた。
「おうぃ、クアン! なんか妙な風が出てきたぜ。ちょっと地図を見てくれや」
 トライマーチのギルドマスター、コッペペだ。この年齢不詳の自称吟遊詩人は、先日ベルンド工房で買った弓を背負うスナイパーだ。ヨルンが入院中の今、実質的にこのパーティのリーダーなのだが……どこか飄々(ひょうひょう)として掴みどころがなく、気概も感じられない上にやる気はゼロ。今日もこの大地の探索というよりは、ただ空の風に吹かれたくて船を出した印象がある。
 だが、彼は腐っても熟練の冒険者……数々の世界樹を踏破してきたトライマーチのギルドマスターなのだ。
「えっと、随分北へと進みましたね。この辺は未開の地域ですから、地図は」
「……見ろよ、下の雲を。穏やかに(ないで)いでるようで、どこか戦慄に凍り付いてやがる。……荒れるぜ?」
 そんな筈はと、地図を睨みながらクアンは下を覗き込む。
 その時、雲の切れ間にクアンは不思議な物を見た。切り立つ断崖の奥で、絶壁の回廊が荒れ狂う風に()いている。顔をあげれば、すぐ目の前に切り立つ岩盤が迫って、コッペペの操船で気球艇は停止する。何事かと船首の方にいたラミュー達が駆け寄ってきた、その時だった。
 クアンの目は、逃げるように流れてゆく雲海の隙間に、奇妙な物体を発見した。
「なんだ、何かのレリーフ……人工物だ。ラミュー! コッペペさんも。あれは」
「……待てクアン。なんだ、なにかが近付いてやがる。へへっ、背筋にビリビリきやがるぜ」
 不意にクアンの隣に駆け寄ったラミューが、己の肩を抱いて背を丸めた。
 それは、一変してしまった空が張り裂けるのと同時だった。
「クソッタレ! 全員なにかに掴まれ! トライウィング急速回頭……っ、振り落とされなよ、っとくらあ!」
 ガクン! と急激なターンで気球艇が高度を下げる。勝手にトライウィングと命名された船体は、コッペペの巧みな舵取りで乱気流の中を滑り降りた。
 そしてクアンは、自分達が闊歩(かっぽ)していた空に現れた恐るべき脅威を見る。
 それは、巨大な翼を広げた深紅の暴君(タイラント)……伝説に詠われしこの世の覇者、大自然の超越神(オーバーネイチャー)。ドラゴン。咆哮(ほうこう)で空気を沸騰させる巨大な赤竜が、あっという間にトライウィングの後方へと迫り来る。
 必死で船体の手すりにしがみつきながら、クアンは傍らのラミューを抱き寄せた。
 見ればエミットもまた、吹き荒ぶ突風の中で小脇にリシュリーを抱えて踏ん張っていた。
「ヘイ、クアン! あれを」
「なんて日だ、よりにもよってドラゴンの周遊に……ん?」
「あそこを見ろよ! ……さっきのレリーフと同じ紋様だ。あれは……迷宮だ!」


 腕の中で手を伸べる、そのラミューが指差す先へとクアンは目を凝らす。
 揺れて蛇行する船上で、クアンははっきりとその目に刻んだ。
 一瞬で通り過ぎて、怒竜(どりゅう)が吠える背後に吸い込まれたのは……紛れもなく、新たな迷宮の入口だ。その緑織りなす古木が形成する森の根本に、入口らしきものがあった。先ほど絶壁の谷間に見た、謎の紋様と共に。
「オイラ面白くなってきたぜえ、へへ……エミットさん、積荷を捨てな! さあ、逃げるぜえ」
「リシュリー、ラミュー達と一緒に船内へ! クアン、手伝ってくれ。回収した食料から順に捨てるぞ」
()くて迷宮、冒険者を(いざな)わん! 竜舞う空の下、世界樹への道標(しるべ)を我は見つけたり! オイラ燃えちゃうねえ」
 全速力で悲鳴をあげるエンジンの振動に揺られながら、トライウィングは一目散にタルシスへと逃げ帰った。
 その日、風馳ノ草原の北部は地図に新たな事実を描き記す。北の果て、大地の行き止まりと……広がる迷宮、碧照ノ樹海(ヘキショウノジュカイ)を。
 クアンはこの時、身震いに凍える妹の笑みが、武者震いだと強がっているように感じて、抱く腕に力を込めた。

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