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 凍てつく風が吹き荒ぶ、ここは銀嵐ノ霊峰(ギンランノレイホウ)。しかし、煉獄(れんごく)の如き凍土も、ミツミネたちイクサビトにとっては故郷にも等しい。長らくこの厳しい大自然の中、モノノフの技を磨きながら生きてきたのだ。
 今、婚約者のイナンナを伴い、ミツミネは深い谷へと降りてゆく。身を刺すような冷気も、大地の裂け目では僅かに緩んで、周囲には草木もちらほらと緑を咲かせていた。
「ミツミネ様、乱気流が……逆巻く竜巻が()いてますわ」
 イナンナが指差す空は、断崖に切り取られて狭い。その中で渦巻く空気が烈風となって吠えていた。
「信じられるか、イナンナ。人間たちは空飛ぶ船でアレを超えてきたのだ」
「ええ。高度を下げて、あの下をくぐって来たとか」
「大したものだ。……さて、我らが目指す先はこのあたりなのだが」
「それでしたら、あちらに煙が。あの(いおり)ではないでしょうか」
 ついとイナンナの細く長い指が動く。その指し示す先へと視線を追わせて、ミツミネは谷底に一軒の小さな庵を見つけた。庵というよりは、掘っ立て小屋に近いその(おもむき)。煙突から細く長く煙を吐き出し、凍えたミツミネには暖かく見える。
 そして、風の音に紛れて、カツン、カツンと響く音。
 それは、ミツミネが師ヤマツミより会うよう言われた男の奏でる響きだった。
 一人のイクサビトが、小屋の前で斧を両手に薪を割っている。
「失礼、ミナカタ殿のお住いはこちらでしょうか」
「……! ミツミネ様、この方は――」
 イナンナに言われて、ミツミネも男の醸し出す存在感に気付いた。自分と同じ剣狼族の男は、剥き出しの上半身で斧を振り上げている。その筋骨隆々たる首筋から肩、背中にかけての筋肉は、間違いなくモノノフとして鍛え上げられたものだ。それも、尋常ではない盛り上がりで逆三角形の上体に汗をかいている。
 ミツミネの声に手を止め、男はゆっくりと振り返る。
 名はミナカタ、かつてイクサビトの里にその人ありといわれた剣豪だ。
「……ミツミネか。でかくなったな」
「お久しゅうございます、ミナカタ殿。こちらは許嫁(いいなずけ)のイナンナにございます」
「お初にお目にかかります、ミナカタ様」
 ミツミネが礼を尽くして頭を垂れると、イナンナもそれに習う。
 ミナカタと呼ばれた男は、首にかけた手ぬぐいで汗を拭きながら、斧を凍った土へと突き立てる。軽く振り下ろしただけなのに、刃はズドン! と大地へ突き立った。
 ミツミネは確信する……師ヤマツミの慧眼(けいがん)は確かだと。
 ミナカタは職を辞して里を去った今も、その膂力(りょりょく)にいささかの衰えも感じない。
「里でなにかあったか、ミツミネ」
「はっ! 人間たちが空飛ぶ船で現れ、伝説のウロビトまで……我らは共に協力して、巨人の呪いに挑むことになりました。故に、ホムラミズチの討伐令が出ましてございます」
「ほう。左様か」
 この激動の数日をミツミネは詳細に語ったが、ミナカタはさして驚いた様子もない。切り株に腰をおろした彼は、興味のない様子で竹筒の水を飲み始めた。
 無理もない、ミナカタが地位も名誉も捨てて世捨て人になってから、もうかなり経つ。
「……ミツミネ様。この方があのミナカタ様なのですか?」
「これ、イナンナ。声が大きい!」
「全く覇気を感じませんわ。まるでそう、造りだけ立派なナマクラのよう」
「イナンナ!」
 悪びれた様子も見せず、形ばかりは控えるイナンナ。彼女の気質をよく理解するからこそ、ミツミネはやれやれと溜息を零す。彼女はしかし、ミツミネが思ってても言えぬことを声に出してしまったのだ。
 だが、失礼を浴びせられて尚、ミナカタは笑って水を飲む。
「いい。許してやれ、ミツミネ。言いたいことの言える、肝の座った嫁ではないか」
「とんだ失礼を」
「要件はわかっている。ホムラミズチの討伐、この俺に手伝えというのだな?」
 ホムラミズチは金剛獣ノ岩窟(コンゴウジュウノガンクツ)を統べる主、恐るべき魔物だ。故にイクサビトたちはホムラミズチを(あが)めて(まつ)り、巨人の心臓を守る霊獣としたのだ。だが今、呪いの病に打ち勝つために、ウロビトたちの巫女が巨人の心臓を欲している。
 その説明もしたのだが、それを聞き流すミナカタはもう……ミツミネの知っているミナカタではなかった。勇猛果敢で徳と仁に富む勇者は、今は見る影もない。
「……すまんな、ミツミネ。俺はここを動けん。もとより里を捨てた身、俺が戻れば古参の将たちはいい顔をせぬだろう」
「しかし! ……ミナカタ殿、師ヤマツミが是非にと。今も師匠は一日千秋の思いで」
「許せ。もはや俺は剣を捨てたのだ」
 にわかには信じがたい。その肉体を見ればミツミネには一目瞭然だ。
 ただの世捨て人にしては、ミナカタの肉体は鍛えられすぎている。
 その時、小屋の戸が開いてか細い声が響いた。
「ミナカタさん、お客様ですか? 珍しいですね……上がってもらってはいかがでしょう」
 声のする先へと顔を向けたイナンナが、その表情が驚きに凍りついてゆく。
 実際目にして、ミツミネも我が目を疑い言葉を失った。
「モリエガ、すまんな……起こしてしまったか? 今日も風が冷たい、身体に(さわ)る」
「大丈夫です、ミナカタさん。お客様がいらしてくださったからでしょうか……今日はとっても体調がいいのです。さ、中へ……温かい部屋でお茶でも召し上がってくださいな」
 現れたのは人間の女だ。彼女が、ミナカタが里を出た理由の全てだとミツミネは聞いている。その原因である女が、まだ生きているとは思わなかったのだ。


 だが、既に長くないと容易に知れる……女もまた、巨人の呪いに蝕まれていたから。既に髪の大半は抜け落ちて、代わって蔦と葉が頭を覆っている。それに養分を吸われているのか、酷く痩せて頬はこけ、血の気のない白い顔が弱々しく微笑んでいた。
 ミナカタが慌てて立ち上がり駆け寄る、その背中を眺めるミツミネに耳打ち。
「ミツミネ様、あの方が」
「ああ、数年前に里へ迷い込んだ女騎士だ……やはりヨルン殿の奥方とは別人だな」
「ええ、しかし……随分と病が進行してる様子、このままでは」
「うむ。まさかまだご存命とはな。これでは確かに、ミナカタ殿は身動きが取れん」
 モリエガは数年前、瀕死の主君と共にイクサビトの里に現れた。手をつくしたが彼女の主は死に、その亡骸を手厚く(とむら)ったのをミツミネは今も覚えている。
 それからだ……あの巨人の呪いが、里の者たちを襲い始めたのは。
 老人たちは口をそろえて、女騎士が呪いを運んだと声を荒らげた。ほかならぬ彼女自身が、病魔に蝕まれて呪われているにも関わらず。遥か太古の戦友にして同胞である人間を、結局イクサビトの里は追放することになったのだ。
 そのことに異を唱えたのがミナカタだ。
 ミナカタは論理と情緒の双方に訴え、なんとかモリエガの里での静養をと嘆願した。
 ……だが、病魔に苛まれて泣く子らを持つ者は、冷静にはなれなかった。無理もないとミツミネは思うし、それを責める気にはならない。そして当時のミナカタもまた、一言も責めなかった。ただ、黙って弱り切ったモリエガを連れ、地位も名誉も捨てて里を出たのだ。
 こうして若きモノノフは浪人となり、世捨て人となったのだった。
「ミナカタさん、ええと……お酒の方がいいでしょうか。そうですね、お酒を用意しましょう。ミナカタさんも久しぶりのお客様で、積もる話もありましょうし。……ッ!」
「モリエガ!」
「だ、大丈夫です。少しよろけただけで。ふふ、ミナカタさんはいつも大袈裟ですよ」
「あ、ああ、すまん」
 よろけたモリエガへ駆け寄り、そっと寄り添い支えるミナカタ。
 その姿を今、この場所から絶対に連れ出せないとミツミネは悟った。鍛え上げた男の背中が、何よりも雄弁にそのことを語ってくれたから。ミツミネは思う……もし、イナンナが病に倒れて、里の全てから拒絶されたなら。やはり自分も、ミナカタと同じことをしたのではと。
「お客様が驚いてます、ミナカタさん。さ、中へ……ごめんなさいね、寒い中」
「あがっていけ、ミツミネ。イナンナ殿も。大したもてなしもできんが、来てくれて嬉しい」
 戸惑うイナンナを気遣いつつ、ミツミネに断る理由はなかった。
 信頼できる戦友を諦める一方で、再会に語りたいことが山ほどあったから。

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