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 スーリャは焦りを感じていた。
 家名も無い孤児の彼女は、物心ついた時からとある組織に管理されて鍛えられた。半人半魔(はんじんはんま)(けが)れた子供故に、闇の中で邪を狩る始末屋として育てられたのである。
 今までの仕事は達成度100%だった。
 だが、今回は成果が(かんば)しくない。
 コシチェイ家のニカノールも背教者フォリスも、殺すことができないでいる。

「こんな(はず)では……ッ! 大丈夫だ、まだ大丈夫……いつも通りにやる。心を殺して、斬り伏せる」

 目深くマントのフードを被り、大鎌を背負ってスーリャは歩く。
 彷徨(さまよ)う影のような彼女を、誰も振り向かない。
 アイオリスの往来でも、彼女は人混みの中を泳ぐように歩いた。すれ違ったことさえ、誰にも悟らせずに歩を進める。
 脳裏には依頼者に先程言われた言葉が乱舞していた。

『この野郎っ、薄汚いゴミ処理屋が……何を手間取っている!』
『背教者フォリスに加えて、あのコシチェイ家の御曹司(おんぞうし)も一緒なのだ』
千載一遇(せんざいいちぐう)のチャンス……我らが悲願のため、古き者共には死を!』

 依頼者達の名は、アイゼンクロイツ。
 このアルカディアで秘密裏に活動する秘密結社である。科学原理主義の名の元に、古くからの伝統や行事、血統や権威を目の敵にしている。また、科学の発展こそが四種族の目指すものと定め、無差別に人間を拉致、惨殺、解体し実験しているそうだ。
 そうした狂信者めいた者のことなど、スーリャには関係ない。
 ただ、依頼を達成して金を稼ぎ、自分の命を繋ぐだけだ。

「急がねば……依頼主は苛立(いらだ)っている。それに、この仕事を逃せば……ん、あれは」

 ふと、スーリャの視線が妙な光景を(とら)えた。
 場所は丁度、昼間は静かな花街の入り口だ。大きなアーチのある通りで、ルナリアの少女が男達に囲まれている。アースランの男達は冒険者のようだが、とても友好的な雰囲気には見えなかった。
 なんてことはない、どこにでもある風景だ。
 自分達が主役だと思っている冒険者は、時に横暴で傲慢(ごうまん)な振る舞いを見せる。
 大方、少女は夜の花売りと間違われたのだろう。
 だが、スーリャの耳に飛び込んできた声は(りん)としてたおやかだった。

「はなしてくださいな。わたしはジェネッタの宿というところに行かねばならないのです」
「へへ、宿かい? なるほど、よーくわかった」
「俺達が案内してやるぜ? 一緒に宿に行こうや」

 男達は欲望丸出しの下卑(げび)た笑みを浮かべている。
 そして、少女には動揺も怯えも見て取れない。
 彼女はただ穏やかに、微笑を湛えて言の葉を(つむ)ぐ。着飾った(よそお)いではないが、大きなトランクを足元に置いたその姿が高貴さを感じさせた。その美しさは、まるでお忍びの姫君だ。


 普段ならスーリャにとっては、興味のない日常風景だ。
 金にならないことはしないし、あまり人目には触れたくない。
 しかし、少女の言葉が彼女を突き動かした。

「わたしは、ワーシャはニカ様に(とつ)ぐべくこの街に来ました。どうか手をお放しください!」

 それは芯の強さを感じさせる声音だった。
 彼女の手首を握った男達は、意外な反応に舌なめずりする。

「へえ、そうかよ。許嫁(いいなずけ)かい? えっと、たしか……ワシリーサちゃん」
「ええ。幼き頃から夫とすることを夢見てきた殿方です。ニカ様以外の殿方が触れることは、断じて許しませんわ」
「はは、状況がわかってねえなあ。どーしてそんなことが言えるかな、ええ?」
「それはワーシャがニカ様のものだからです。この命から髪の毛の一本にいたるまで、全てコシチェイ家のニカノール様に捧げるためにあるのですから」

 瞬時にスーリャは、黒い風となって男達の背後に立つ。
 気配を忍ばせての接近から、ありったけの殺気を解き放った。
 男達は皆、ビクリ! と身を震わせて振り返る。
 スーリャは低くくぐもる声で、静かに一言だけ言い放った。

「失せろ」

 瞬時に男達は硬直し、次の瞬間には表情を引きつらせる。
 そんな彼等の中で、ワシリーサという名の少女だけが目を丸くしていた。
 だが、男達は自分の面子(めんつ)にこだわった。
 そして、スーリャと自分達の実力差がわからなかったのだ。
 真に優れた冒険者は、接した者の力量を一目で見抜くという。戦いに勝つ者が強いのではない……強い者との戦いを避ける者こそが真の勝者なのだ。

「ああ? なんだ、ボウズ……喧嘩売ってんのかあ?」
「ビビらせやがって、さっきのは何だ? へへ、こんなヒョロヒョロのモヤシがよお!」
「お? こいつ、女かあ? へへ、貧相な体つきだぜ。客なら他を探しな」

 男の一人が、スーリャの平坦な胸に触れた。
 次の瞬間、スーリャは呼吸を肺腑(はいふ)に留めて右手を上げる。そっと男の親指を握るや、力任せに逆関節へと捻り上げた。
 男は絶叫と共に、壊れた人形にも似た醜態で地面に転がる。
 スーリャは華奢(きゃしゃ)痩身(そうしん)だが、無駄な肉のない全身はそれ自体が凶器だ。

「もう一度言う……失せろ」

 菫色(ヴァイオレット)の暗い瞳を向けると、ようやく男達は悟った。
 目の前にいるのが、死神だと。
 実際、人ならざる何かを父に持ったスーリャは、人間とはいえない存在かもしれない。そして、それを感じとるや男達は慌てて逃げ出した。
 その背を見送るスーリャは、ワシリーサに向き直る。
 意外なところで偶然接した、暗殺対象の婚約者(フィアンセ)……逃がす手はない。
 そう思っていた、その時だった。

「まあ! どなたか存じませんが、ありがとうございます。感謝を、ええと」

 ワシリーサは逃げるどころか、自分からスーリャに近付いてきた。
 そして、褐色(かっしょく)の肌に包まれたスーリャの手を取る。
 少し骨ばった自分の手と違って、ワシリーサの手は柔らかく温かかった。そして、彼女は満面の笑みで更に手を重ねる。まるでおひさまのような柔らかい笑みだった。

「お名前をお(うかが)いしても? わたしはワシリーサ・イリヌーシュカ・ウォロパエフですわ。どうぞ、ワーシャと呼んでくださいな」
「……スーリャだ。ただのスーリャ」
「スーリャ様、改めてありがとうございます」
「いや、助けは……必要なかったかもしれない」

 直接接触してみて、スーリャは奇妙な感覚に戸惑っていた。
 ワシリーサはあまりに無防備で、無邪気だ。そして、そのことに自分でも気付いていない。ただ、彼女の素顔と本音に触れていると知った瞬間から、スーリャの中で何かが変わってしまった。
 ささくれだっていた気持ちが、まるでブラシをかけられたように静かになる。
 流れる血の温かささえ知らぬ手に、ぬくもりが伝わってきた。v
「……ワーシャ、一つ訪ねたいことがある」
「はい、何なりと。スゥ様は……あ、スゥ様とお呼びしてもよろしいでしょうか」
「す、好きに呼べばいい」
「はいっ! スゥ様は命の恩人ですわ。ワーシャにできることがあれば、何でも(おっしゃ)ってくださいね」

 スーリャへと身を寄せ、間近でワシリーサは見上げてくる。
 その宝石にも似た美しい瞳に、怯えを隠せない自分の姿をスーリャは見た。人外や異形を人知れず(ほふ)る、名うての始末屋が感じたもの……それは恐怖にも似た別世界、そして別種の人間のぬくもりだった。
 慌ててスーリャは、ワシリーサの手を振り払う。

「なっ、なんでもない! ……ジェネッタの宿なら、大通りに戻って冒険者ギルドの方へ迎え。大きな評議会の建物が見える方向だ。すぐに宿の看板が見つかる」
「まあ……ありがとうございます! 何から何まで……スゥ様のような冒険者さんに会えて、嬉しいですわ。さっきは少し、がっかりしてしまいましたもの」

 ワシリーサは弾んだ声で、幼い頃の寝物語に聞いた冒険譚を語り出した。嫁ぐ日を夢見る、その夢の中へと眠る間際の物語。ばあやが聞かせてくれた話は、どれも彼女の心にときめきを与えたという。
 だが、スーリャは話し続けるワシリーサに背を向け去った。
 ワシリーサの見送り手を振る声は、路地裏に逃げ込むまでずっと聴こえていた。

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