ジェネッタの宿は今日、一際賑わっていた。
留守番していたスーリャはよく知らないが、あのコッペペの古い仲間が尋ねてきてくれたのだ。正確には、その二人組はエクレールという名の一人の冒険者を演じていたのである。
その正体は、レヴィールの祖母とラチェルタの父親だったのだ。
食堂の楽しげな声が、この部屋まで聴こえてくる。
「……私、変だ。今、チェルのことを……
羨ましい、と、思った、気がする」
先程ちらりと見たが、一発で親子だとわかった。
おひさまのようなラチェルタの金髪は、父親譲りだったのだ。二人で並べば、月と太陽とが揃ったように
眩しい。
口では文句ばかり言っているが、レヴィールもいつもより砕けた印象である。
やはり、年頃の少女には身内や知り合いとの再会は嬉しいのだろう。
スーリャにはそんな人間はいなかったし、知識でしか想像できなかったが。
「ノァンは、どうかな……ねえ、ノァン。大切な家族、いる……?」
物言わぬベッドの少女に語りかけるも、普段通り返事がない。
今日もスーリャは、眠り続けるノァンの側にいた。以前は敵同士だったのに、今は不思議と命を救い合った仲である。彼女があの時輸血してくれなければ、スーリャは生きてはいないのだ。
だから、アンデッドキングとの死闘で眠ってしまったノァンを、今度はスーリャが支える。そして、ノァンの目覚めを待っているのは彼女だけではなかった。
「スゥ様、ノァン様の様子はいかがですか?」
ノックに返事をすれば、ワシリーサが来てくれた。彼女はサンドイッチの皿とティーポットを持っており、もう昼食の時間だと教えてくれた。
まるで主人に張り付く忠犬のように、ここ最近スーリャはノァンの枕元にいる。
他の仲間達も時折顔を見せてくれるし、ワシリーサも献身的に看病を続けてくれた。
スーリャは時折ノァンの手を握り、その冷たさを温め続ける日々だった。
「ワーシャ、ノァンは今日もよく眠っている」
「随分経ちますわ……ふふ、お寝坊さんですね、ノァン様は」
「うん」
ワシリーサは、いつも笑顔だ。
彼女は信じている……ノァンが再び目を覚まし、元気になることを。
それはスーリャも信じたいのだが、確証がもてなくて上手くできない。人を信じて祈るような気持ち、願いと望みで胸が溢れてしまう感情を、スーリャは初めて知ったような気がした。
そのことを今まで、誰にも話したことがない。
上手く説明できそうもないし、自分でもおかしなことだと思ったからである。
だが、今日はついワシリーサに
呟いてしまう。
「フォスは、言ってた。肉体的におかしなところは、ないと。ただ」
「ええ」
「ただ、ノァンが造られた時に封じ込められていた、
魂のようなものが抜けてしまったのかもしれない、と……それを聞いてから、私は変になってしまったのだ」
酷く落ち着かない日々が続いた。
冒険にも身が入らないし、食欲もわかない。自分を完璧な
殺戮人形として維持するのは、スーリャにとって呼吸をするようなものだ。だが、トレーニングも栄養補給も
疎かで、よく眠れない日々が続いている。
素直にスーリャは、この妙な状態がなんなのかをワシリーサに問うてみた。
どういう訳か、ワシリーサの笑顔を見ていたら自然と口をついて出たのだ。
「スゥ様、それはきっと……ノァン様のことが好きなんですわ。前よりずっと」
「好き……私が、ノァンを」
「好きにも色々あって、わたしもスゥ様のことが好きです。でも、ニカ様への好きは、ちょっと……ううん、凄く、すっごく違うんです!」
グイと身を乗り出してきたワシリーサに、思わずスーリャは身をのけぞらせる。ワシリーサの大きな瞳には、満天の
星海の
如く光が揺れていた。
とても強くて優しくて、揺るがない
眼差し。
彼女は
微笑みながら言葉を続ける。
「ただ好きであることは、それだけで尊いと思うんです。そして、勇気があるなら……その気持ちの行く先を確かめてみなきゃいけないんです」
「それは、つまり、その……相手に、好意があることを、伝えるのか」
「それでたとえ想いが成就しなくとも、そうするべきだと思う時があります」
自分も怖いのだと前置きして、ワシリーサは教えてくれた。
ワシリーサは幼少期より、ニカノールの花嫁となるべく育てられた。それはコシチェイ家に嫁ぐということであり、
生贄を意味していたのだ。
だが、幼少期からワシリーサは、いつも夢に見ていた。
自分だけの王子様、未来の旦那様。
きっと素敵な人だろうと、小さな胸を高鳴らせてきた。
実際に会ったら、全く想像と違ったが……思っていた以上に素敵な人だった。そう言ってワシリーサは
頬を朱に染める。
「ニカ様は、不慮の事故で生ける死人に……ノァン様も同じです。私には時々、お二人が兄妹や姉弟に見えました。それ以上に思えることもあって」
「そ、それ! それだ! 私も、そう思った。なんだか、上手く言えないけど、近い」
「でも、気付いたんです。お二人はきっと、恋や愛よりもっと深いところで繋がっている。あと、そう……きっと親友なのかもしれませんの」
ニカノールとノァン、二人は一緒の時はいつも笑っていた。どちらからともなくくだらないことを言って、街でも
迷宮でも笑っていた。
今もニカノールは、フォリスと共に色々な古文書をひっくり返している。
屍術士の二人は、死体人形であるノァンを目覚めさせる方法を探してるのだ。
そして、ワシリーサな正直に心境を
吐露する。
「わたしは、少し
羨ましかったんです。ニカ様は優しさと臆病な心で、わたしと少し距離を置いている。でも、ノァン様はその内側に気軽に出入りしてるんですもの」
「……同じだ。同じ、だ! 私も、その、上手く言えないけど……モニョモニョ、する」
「まあ、スゥ様もですか?」

ワシリーサは驚いた顔を見せて、次の瞬間には手を握ってきた。
もう片方の手をさらに重ねて、彼女はニコリと微笑む。
「スゥ様、ありがとうございます。スゥ様のお気持ちを知って、ワーシャは少し救われたような気がしました。とても変なの……嬉しいんです」
「わ、私は、その……ワーシャみたいに、かわいく、ないし。同じでは、ない、気がする」
「でも、、胸の内を明かしてくれましたわ。ふふ……同じですね、わたし達」
「そ、そうだ、な……そういうことも、あるのか」
可憐なワシリーサの美貌が目の前にあって、不思議とスーリャは顔が
火照る。こんなに美しいルナリアの女性は、彼女にとって初めてだからだろうか。ワシリーサは今日も、静かに灯って周囲を温める、炭火のような笑顔で接してくれた。
雌雄併せ持つ半人半魔のスーリャは、性別の片方がドギマギするのを感じた。
「あ、あの、えと……ワーシャ」
「はい。なんでしょう、スゥ様」
「その、こういう話、ま、また、時々……ワーシャと、話したい。少しで、いいから」
「ええ。その時はお茶やお菓子も用意して。ふふ、こういうのがガールズトークというものなのですね。本で読んだことがありますが、嬉しいです」
スーリャの手はまだ、ワシリーサの手に包まれていた。
褐色の肌に重ねられた、白く小さな手である。
「ワーシャも、時々スゥ様がお話を聞いてくだされば嬉しいです。その、恥ずかしいのですけど、
愚痴とかも」
「愚痴!? ワーシャが、愚痴を! どうやって」
「わ、わたしも聖人君子ではありませんわ。……ニカ様がいつ、わたしを傷物にしてくださるのか、そればかり考えてしまうこともあって」
「それは、うん、おかしくない! だって……だって、ワーシャはニカが、好きなんだから」
最初は親が決めた
許嫁同士だったが、人は変わるものだ。
自分でさえ変わるのだから、スーリャには酷く実感なのだった。
「スゥ様、わたし達……今まで以上にお友達ですわね。ノァン様も、きっとそう。わたしの大事な友だちで、スゥ様にはもっと大切な人。そう思いますの」
そう言ってほがらかにワシリーサは笑った。
その笑顔が、不思議とスーリャの中のもやもやを静かに払拭してゆくのだった。