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 異変に包まれた迷宮は、進むほどに瘴気が色濃くなってゆく。
 それは、あのアンデッドキングが支配していた過去に戻ったかのようだ。暴虐なる主が去った第三迷宮『晦冥ノ墓所(カイメイノボショ)』は、再び魔素の奔流へと沈んでいた。
 以前にも増して、深く濃密な闇にニカノールも驚く。
 これほどまでに死の気配を凝縮させた空気は、流石(さすが)に彼も初めてだった。

「この階層にまだ、こんな抜け道があっただなんて。それに、この気配は」

 視界を覆う闇は、その全てが猛毒の腐臭に満ちている。呼吸するだけで胸が焼けるようで、それでいて凍えるように寒い。
 背にワシリーサを(かば)いつつ、ニカノールは慎重に歩を進める。
 続く仲間たちも、尋常ならざる迷宮の雰囲気に緊張感を高めていた。
 ただ一人、ノァンだけが普段通りで無邪気に笑っている。

「ニカ、これは大変なのです……アタシでもわかるのです! 危険が危ないのです!」
「うん、そうだね。でも、進もう。この事態の元凶を突き止め、できるなら排除しないと」
「はいです! ソロルとリリを助けるためにも、アタシ頑張るです!」


 ここは死者の国、無念に満ちた常闇の迷宮(ダンジョン)である。
 だが、今はアンデッドキングも倒され静けさに満ちていた筈なのだ。しかし、屍術師(ネクロマンサー)の秘術を持つリリを求めるように、再び悪意と害意が満ちている。それは恐らく、リリを呼び込み飲み込んでしまうだろう。
 それを察したからこそ、ソロルは助けを求めてきたのだった。
 恐らく今は、彼女はパートナーであるリリを守って街にいるだろう。
 慎重に進むニカノールたちは、異変の爆心地へと近付いてゆく。
 今日は頼もしき格闘士(セスタス)が三人、先頭に立ってくれていた。その中でも、フンスフンスとノァンだけが元気にグイグイ歩を進める。頼もしいことこの上ないが、ニカノールは自分と似た境遇の彼女が心配でもあった。

「ノァン、体調は平気?」
「アタシですか? へっちゃらなのです! やる気が(みなぎ)ってるです!」
「……僕たち不死者には、この強烈な瘴気も意味をなさない、か。でも、みんなはそうじゃないからね。今回は無理せず、余裕を持って進もう」
「はいです!」

 ちらりと背後を見やれば、ワシリーサは少し苦しそうだ。
 無理もない、常人にとってはここの空気は猛毒にも等しい。こんなにもはっきりと色付いた瘴気は、ニカノールも初めて見る。それだけの力を持つなにかが、この奥にいる……溢れ出る負の力が、自然と空気を濁らせているのだ。
 一方で、ジズベルトは平然としている。
 筋骨隆々(きんこつりゅうりゅう)たる巨漢の紳士は、今日も悠々と、そして堂々と歩を進めていた。
 逆に、ヨスガは少し苦しそうだ。

「ヨスガ、大丈夫かい? 抵抗力の弱い人間は、かなりキツいと思うけど」
「大丈夫です、ニカ様。ただ、ちょっと」
「無理はしないでね。前衛は僕が代わるから」
「すみません……体調は悪くない筈なのですが」

 ヨスガは小さく震えていた。その華奢な痩身は今、普段のバーテンダー姿ではなく格闘士としての防具を身に着けている。彼は蹴り技を主体に戦う技巧派で、その脚線美は男性とは思えない程である。
 そして、無理に笑うヨスガを下がらせ、ニカノールは前に出た。
 すぐに背後で、気遣うワシリーサの声が響く。

「ヨスガ様、酷い汗が」
「流石に少しきついですね。ワーシャ様は平気ですか?」
「ルナリアはもともと、ある程度の耐性がありますから。それでも、これだけの恨みや憎しみ、そうしたものに満ちた空気は」
「……まとわりついて、絡みつくような空気です。少し、嫌な過去を思い出してしまうのです」

 一寸先も見えぬ中、闇より尚も暗い迷宮を歩く。
 ニカノールは死霊に先導を任せつつ、ジズベルトやノァンと共に先頭を進んだ。慎重に何度も地図を確認し、その都度道のりを書き込んでゆく。
 背後ではワシリーサが、ヨスガが楽になればと思い出話の聞き手に回っていた。
 思い出とは美しいものばかりではなく、悲しいものや恐ろしいものもある。そして、楽しい日々が美化されるように、苦しい時は一瞬であってもどんどん痛みを増すこともある。
 ヨスガは、美しき女装の麗人としての自分に暗い過去を秘めていた。
 死に満ちて怨念が渦巻くこの場所は、霊的にも魔術的にもそうしたものを刺激するのだ。

「私は今も、時々思い出します……ふふ、こう見えても昔は(すさ)んだ生活に身をやつしていたもので」
「話して楽になることもありますわ。話せぬこともまた、あると思いますが……ワーシャでよければ、話してみてください。ヨスガ様は今、心の古傷を悪意に触れられてますもの」

 アイオリスの街に集う冒険者は、誰もが様々な過去を持つ。ニカノール自身も複雑な事情があったし、誰にでも危険な迷宮を調査する理由があった。
 無遠慮な詮索は誰もが慎むし、知りたがり屋は嫌われる。
 ここでは生まれも育ちも関係なく、種族や性別も問われない。
 世界樹の迷宮では、冒険者としての資質と経験、実力だけが全てなのだ。
 そんな不文律を知っててさえ、ワシリーサは優しく仲間の心に寄り添おうとしていた。

「私は今でも、自分のことが少しだけわかりません。両親が求めたように、家を継ぐ男にはなれませんでしたし……かといって、気持ちとは裏腹に肉体は変えようがありません」
「それで、お辛い経験をされたのですね……わたしなどが軽々しく言ってはなりませんが、ヨスガ様のお気持ちはわかりますの」
「ふふ、ありがとうございます。普段は忘れているのです……けど、今日は妙に青臭い感傷が気持ちを鈍らせてしまって」
「ここの空気が悪いからです。ヨスガ様、どうか無理だけは」

 ワシリーサの優しさに、弱々しくヨスガが笑みを返す。
 人間はどうしても、肉体に比べて精神は鍛え難い。時には鈍感になることも求められるし、精神力を高めるために盲信や思い込みを背負っては本末転倒である。
 ちらりとニカノールは、猛毒が煙る先を進む死霊へ気を配る。
 屍術師に完全に制御されていても、普段より死霊もこころなしか落ち着きがない。やはり、この空間に満ちた負の感情は強過ぎるのだ。

「ジズベルト、ノァンも。今日はこの辺にしておこうか。この先に多分、少し開けた場所がありそうだ。そこで行き止まりか、それとも」

 地図は既に、このフロアに新たに開かれた西側の大半が埋まっている。大まかな迷宮の形がわかっただけでも、今日の収穫は十分だ。無理して強行軍を続ければ、まず真っ先にヨスガが参ってしまうだろう。
 ニカノールとて、この空気に対して無敵ではいられない。
 ノァンもそうだが、不死者故の耐性も万能ではないのだ。

「すみません、ニカ様。皆様も。……これでは、敵の思うつぼというものですね」
「なに、気にすることないさ。そうだね、敵……この奥になにかがいるのは確かだけど」

 そう、確かに敵の存在を感じる。
 それも、以前のアンデッドキングとは比較にならないほどの強敵だ。例えるならそう、死を統べる過去の亡霊などではない……死、そのもの。あらゆる生命に訪れる死の、その負の側面だけが凝り固まったような気配がある。
 ニカノールといえども、気を抜けば震えが込み上げ立ち竦んでしまいそうだった。

「よし、アリアドネの糸を使うよ? 戻って情報をまず整理しよう」

 振り返ったジズベルトが、重々しく頷く。その横で、オシショーオシショーと元気なノァンもすぐに同意してくれた。
 だが、そんな時……突如としておぞましい咆哮が空気を沸騰させる。
 迷宮の奥底から、憎悪に満ちた獣の吠え荒ぶ声が響いた。
 ビリビリと迷宮自体が振動して、漂う瘴気さえも震えている。

「なっ、なんだ? やっぱりこの奥……まずいな」
「ニカ、なんか近付いてくるです! 凄く、でっかいのが来てるです!」

 ノァンが身構え、その前へとジズベルトが躍り出る。
 目の前の空気が四散して、突如地響きが走る。
 腐臭が鼻を突き、更に空気は濁って澱んだ。
 その奥から……恐るべき不死の怪物が姿を現すのだった。

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