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 時に、西暦2020年……春。
 曇天(どんてん)の空には今、暗い雲が地を這うように低い。
 眠らない街、東京の眩い夜さえ今は(かげ)って見えた。
 だから、少女の見上げる新宿都庁舎は、不気味な双子の塔となってそびえている。

「っちゃー、もう始まってる。完全に遅刻だよこれ、まいったな」

 人の気配が全く失せた都庁舎は、玄関前だけが忙しく行き来する人だかりで賑やかだった。そして、ほぼ全ての窓から明かりを失った建物は、ただならぬ雰囲気を漂わせていた。
 少女の名は、トゥリフィリ。
 ローライズのホットパンツで、ヘソ出しルックのスポーツジャージ姿。赤い髪は無造作に結んで、ポニーテイルというにはいささか元気がよすぎる蓬髪(ほうはつ)を揺らしている。しなやかな細身の矮躯(わいく)は、無駄な肉が少なく洗練されていた。それでいて、異性の劣情を煽るような豊かが乏しいのに、振り返る誰もが目を奪われた。
 トゥリフィリが玄関前に近づくと、白衣の男が飛んでくる。
 眼鏡をかけた、少し頼りなさそうな優男(やさおとこ)だ。

「ああ、君はひょっとして……試験ナンバー10581、コードネームは」
「トゥリフィリです。あのっ、ごめんなさい! ちょっと、ええと……そう! エスカレーターに乗り遅れちゃって」

 我ながら、咄嗟(とっさ)に出た言い訳に全く説得力がない。
 そもそもトゥリフィリは嘘をつくのが苦手だ。
 ただ、遅刻の本当の理由を告げるのが、少し恥ずかしかっただけ。
 ――なんだか胸の奥がザワザワする。
 そんな曖昧な理由でたたらを踏んでいたことを、目の前の人はわかってくれるだろうか? そして、その胸騒ぎが危険を訴えてくるのに、高鳴る鼓動の方を信じてしまったのだ。だから、遅れながらもこの場所に来た。
 今、都庁舎ではムラクモ機関と呼ばれる秘密組織の選抜試験が行われている。
 目の前の青年も、その組織に属する人間だ。
 彼は微笑みながら己の立場を名乗る。

「僕は桐野礼文(キリノアヤフミ)、キリノって呼んで欲しい。ムラクモ機関の技術顧問だよ」
「あ、よろしくお願いします」
「ふふ、そう硬くならないで。技術畑の人間として、気になるね……乗り遅れると一時間も遅刻しちゃうエスカレーターというのは」
「すみません……嘘、でした。でも、あの!」
「ん? ああ、いや。気にしなくてもいいよ。僕も今日は悪い予感がしてね。科学者でも虫の知らせっていうのがあるのさ。……なにか、普段の選抜試験とは空気が違う」

 キリノと名乗った青年は、僅かに表情を強張らせる。
 だが、すぐに笑顔になって手を叩いた。
 何故だろう、キリノの表情はどこか弱々しいのに、笑みを象ると不思議な安心感がある。トゥリフィリにはすぐ、キリノがいい人だとわかった。
 軽視するように片付けるための言葉ではない。
 どうでもいい人、でもない。
 とてもいい人……自分と一緒に他人を大事にできるタイプの人間に見えた。
 両親に鍛えられたからか、トゥリフィリが人間を観察する目は確かだ。
 それは時に、鍛え抜かれた諜報員並の洞察力を発揮する。
 キリノは周囲を見渡し、自分の手の携帯端末もいじりだす。

「待ってて、確かまだ出発してないS級能力者(エスきゅうのうりょくしゃ)が……」
「S級? 能力者? それは」
「君みたいな優れた資質を持つ人間のことだよ、トゥリフィリ君」

 キリノは小さな液晶画面の中でリストをスクロールさせながら教えてくれた。
 ――S級能力者。
 人種や民族を問わず、極々稀に生まれてくる先天的な力の持ち主。運動神経や身体能力、精神感応力に秀でた人間のことだ。彼ら彼女らを、ムラクモ機関は集めて管理し、とある秘密の戦いへと投入している。常に人手は不足していて、敵の存在は絶えることがない。

「つまり、社会の影でマモノと戦うムラクモ機関としては、一人でも多くのS級能力者が欲しいんだ。君みたいなS級能力者がね」
「ぼくが、能力者……それより、マモノ!?」
「そう、マモノ……異形とか怪異とか呼ばれる、日本の暗部さ。魑魅魍魎(ちみもうりょう)に妖怪、幽霊、呼び名は様々だけどね。それは実際の脅威として存在するし、知られてないのはムラクモ機関が秘密裏に処理しているからなんだ」
「正義の味方、的な? そっか……ぼく、妖怪ハンターの試験に来ちゃったんだ」
「聞いてなかったかい?」
「両親はただ、いいから受けてみろって」

 ここまで来ておいてなんだが、トゥリフィリは全く知らなかった。
 ムラクモ機関の名前も仕事も、この日本に潜んで隠れた危機も。
 ただ、平凡な女子高校生として一人暮らしをしてても、自分に優れた運動神経があることは知っていた。それを両親は育てて伸ばしたし、己の身を守る術も教えてくれた。そして先日、今日のこの試験を受けてみるようにとメールをくれたのだ。
 そこまで思い出した時には、キリノが溜息で携帯端末を仕舞う。

「まいったな……試験はもう始まってて、全員出発しちゃったみたいだ。一人で送り出す訳にもいかないしな。三人一組、スリーマンセルが基本だから」

 困り顔で笑うキリノの背後で、声が走った。
 とても怜悧(れいり)な、冷たい声音……しかし、そこには昂る気持ちが潜んでいる。美しい女性の声は、確かに高揚感を滲ませていた。
 キリノが振り向く先で、一人の女声が近づいてきた。
 凍れるような美貌の持ち主で、歳は三十代半ばというとこだろうか。
 彼女は自分で日暈棗(ヒカサナツメ)と名乗り、トゥリフィリを一瞥して笑みを浮かべる。

「キリノ、丁度いいわ。この子は彼女と組んでもらいましょう。流石にムラクモ機関も、あの家の影響力には逆らえないもの。でも、変に怪我してもらっても困るでしょう?」
「ナツメさん、彼女って……羽々宮(ハバミヤ)の? 確かに彼女もまだ来てませんが、しかし!」
「キリノ、貴方は黙って私の命令を処理してちょうだい。もう試験は始まってるし、他の候補生を追いかけるのだから危険も少ないわ。……ほら、噂をすれば」

 トゥリフィリの背後で、一台の黒いリムジンが停車した。
 そして、ドアが開かれ少女が降りてくる。
 長い黒髪にセーラー服の、凛とした空気をまとった美しい少女だ。
 可憐な容姿を裏切るように、その手には日本刀が携えられている。
 彼女はトゥリフィリと目が合うや微笑んで、それからキリノとナツメを見やる。その表情は端正な顔立ちが引き締まって、とても高貴な気高い空気を発散していた。
 涼やかな声が、笛の音のように響く。

「675代目、羽々斬(はばきり)の巫女……羽々宮斬子(ハバミヤキリコ)、推参いたしました。本日はよろしくお願いいたします」

 目も覚めるような美少女は、凛々しく名乗って(こうべ)を垂れた。
 闇夜より尚も黒い髪が、静かに揺れる。
 顔をあげた彼女は、周囲を見渡し小さく溜息を零す。

「既に試験は始まっているようですね。遅参、御容赦を。胸騒ぎがして、そのことを占っていました」
「あら、そう? まあ、私たちムラクモとしては、キリコお嬢様に来てもらうまでもなかったんだけども。ただ、確認されてるS級能力者は全員参加が鉄則なの」
「その点については理解しています、ナツメさん」

 どうやらキリコは、招かざる客のようだ。
 少なくとも、ナツメにとっては。
 そんなことを考えていると、トゥリフィリの背をポンとキリノが叩いた。

「早速で悪いけど、キリコ君。このトゥリフィリ君と一緒に組んでくれないかな? 君と彼女で最後のメンバーなんだけど、申し訳ないけど三人目は都合できないんだ」
「承知しました、問題はありません。では」

 キリコは白い手をトゥリフィリに差し出してくる。
 微笑む表情は、完璧としか言いようがない造形美だった。
 気後れしながらもトゥリフィリは握手した。

「よろしくお願いしますね、トゥリフィリさん」
「こちらこそ。えっと……キリコさん、でいいのかな」
「ええ。それが私に与えられた名です。では、行きましょう」
「う、うん」

 こうしてトゥリフィリは、キリコと並んで都庁舎の中へと進む。それは、永きに渡る遠大な旅の、最初の一歩になった。
 今、宇宙の摂理に抗う遙かなる旅路の、全生命の尊厳を賭けた戦いが幕を開けた瞬間だった。

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