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 寒くもないのに震える脚に、凍えぬには至らぬ程度の冷たさが這い上がる。
 暑さは感じないが、じっとりと奇妙な汗が背筋に浮かんでいた。
 今、トゥリフィリは言い知れぬ違和感の中で恐怖を味わっていた。四谷の帝竜(ていりゅう)が生み出した迷宮『常夜の丘(トコヨノオカ)』は、その名の通り明けない宵闇(よいやみ)に支配されている。
 ここでは太陽は、大きな満月を介してしか人を照らしてくれないのだ。
 自然とトゥリフィリは、前を歩く二人へ目をやる。

「おうこら、キリ……歩き難い。離れろ」
「わっ、わかってる! ナガミツ、感じないのか? この空気が」
「酸素濃度に問題はない。気温も湿度も平常……強いて言えば、不自然に一定なのはおかしいがな」
「そういう意味じゃない! ……あ、あれ? 私、なんでドキドキが、二つあるんだ?」
「いいから離れろ」
「……ご、ごめん。でも、ちょっと、もうちょっとだけ」

 ザクザクと大股で歩くナガミツの腕に、キリコがぶら下がるように抱きついている。
 なんだか、変な気持ちになる。
 何故(なぜ)かはトゥリフィリにはわからない。
 だが、どうみても美男美女のカップルにしか見えない二人の、その重なるような密着が見てられない。
 キリコはどうやら、こうした場所が苦手らしい。
 彼女は天ノ羽々宮(テンノハバミヤ)と呼ばれた、羽々宮家の当主だ。突然今の当主が死んだため、その死体から使える臓器や出産のための機能を詰め込まれた、元は少年だった少女である。
 彼女を見ていると、霊感というものの存在を信じるしかない、それも困る。

「……キリちゃんがビビってるのに、ぼくまでってのは……無理、だから」

 そう自分に言い聞かせる。
 まだまだ中学生のキリコの、尋常ならざる怖がり方。それが如実に見えないなにかの存在を物語っていて、少し辛い。いやがおうでも、ブルッてる彼女が教えてくれるのだ。
 ここには、霊がいる。
 そこかしこに、おばけがいる。
 魑魅魍魎(ちみもうりょう)百鬼夜行(ひゃっきやこう)の存在を訴えてくるのだ。
 だから、なんとなくヤなんだとトゥリフィリは思った。
 二人の距離が近いのは、関係ない……(はず)、だが、なんだかモヤッとする。

「だいたいなんだ? お前、それでも斬竜刀(ざんりゅうとう)か?」
「……ドラゴンは化けて出ないし、幽霊にもならないもん」
「そうかあ? なんで、生き物の中に幽霊になれるのと、なれないのがいるんだよ」
「えっと……魂、とか? あと、自我、感情とか」
「あのトカゲ共も持ってるぜ? 攻撃衝動と闘争本能、食欲と破壊欲」
「それは、そう、だけど」

 ――竜、すなわちドラゴン。
 突如として地球全土に襲来し、万物の霊長たる人類を滅ぼそうとしている。わずか数ヶ月で、何千年もの歴史を築いてきた文明が消え去りそうになっていた。
 目的は不明。
 正体も不明。
 わかっていることは一つ……過去最悪の天災レベル、初めて人類が遭遇する天敵。食物連鎖の頂点に立つ人類の、そのヒエラルキーを無視した超常の攻性生物なのだ。
 この迷宮(ダンジョン)にも、そこかしこに竜の気配を感じる。
 それは殺気であり、害意……そして、飢えた獣のように貪欲な破壊衝動だ。

「キリ、ひっつくならフィーにしろよ」
「えっ!? そ、それは、あの、えと……い、いいの?」
「なんで俺に許可を求める。……駄目、なのか?」
「……普通、駄目、じゃない?」
「そっか。そういや……そりゃ駄目だな」
「駄目、なんだ」
「おうこら、なんで残念そうに……って、キリ! マモノだ」

 敵を発見するなり、腕のキリコを引っ剥がすナガミツ。彼は走り出すや、内蔵や骨を零しつつ襲い来る野犬へと立ち向かう。
 死して(なお)、虚ろな魂で吼えるゾンビ犬だ。
 トゥリフィリも援護しようとした、その時。

「わわっ! ちょ、ちょっと、キリちゃん!? ……怖い、よね。感じちゃうもんね。うう、ぼくだって……でも」

 突然、ガシリ! とトゥリフィリの腕に黒髪の少女が抱きついてきた。
 (うつむ)きながら、長い長い髪で顔を覆ったセーラー服姿。
 震えている……そして、とても冷たい。
 トゥリフィリだって恐怖に縮こまっているが、キリコ程切実ではないかもしれない。トゥリフィリの恐怖は自然な感じ方だが……キリコには、その恐ろしさが知識で、そして能力に寄るハッキリとした存在感で流し込まれているのだ。

「ぼくにつかまってて、援護もできたらでいいから! ……あ、あれ? ね、ねえ……キリ、ちゃん? ――ッ!?」

 その時、トゥリフィリは横を見て絶句した。
 そこにいるのは、キリコであってキリコではなかった。
 代々名を継ぎ、神代の太古から日ノ本を守ってきた巫女……絶えず怪異や邪悪と戦ってきた、異能の凶祓(まがばら)いの一族。その全てを束ねて統べる当主は、そこにはいなかった。
 ただ、尋常ならざる力がトゥリフィリの腕を締め付け、どんどん重さを増す。
 その髪で覆われた顔には、大きな丸い双眸(そうぼう)が真っ赤な光を湛えていた。

「ドウシテ……ナゼ? ワタシガ、死ンデ……アナタガ、生キテル」
「……サキ、さん。サキさんなんだね! あ……」
「ホラ、見テ……全部、弟ニアゲタノ。ワタシ、カラッポ……中身ガ、ナイノ」

 まるで奈落へと引きずり込むような、暗く冷たい声。
 まとわりつく死者は、見るもおぞましい死体でありながら……確かに、あの日死んだ先代のキリコ……サキ本人だった。
 彼女の着るセーラー服が、生ぬるい風に散らされる。
 顕になる裸体は、大きな切開の傷痕が開いていた。
 その中には、なにもない……がらんどうの、(ほら)のようだ。

「ネエ……アナタヲ、詰メテ、イイ? アナタノ、中身、頂戴……ワタシノ、中ニ」
「サキさん……ご、ごめん。あの時、ぼくが。それと、もっとごめん! なにもあげられない、してやれないよ! ぼく、まだ生きてなきゃ……生きてたいから!」

 だが、サキの亡霊がどんどん重くなってゆく。
 まるで(なまり)のようで、腕から全く剥がれない。
 トゥリフィリが焦りを感じた時、不意に脳裏を声が走った。
 空気を震わす肉声ではなく、声としか形容できぬ電気信号が聴覚に触れてくる。わずか一瞬の中で、トゥリフィリは声の主まではっきりとわかった。

『トゥリフィリさん、気持ちをお強く……自分を信じて。私の最初で最後の友達を、信じて』

 瞬間、亡者が抱きすがる腕がすっぽ抜けた。
 そのままの勢いで前転しながら、銃を抜く。
 振り返れば、そこにはもう勇敢だった少女の姿はなかった。
 朽ちた骨と腐った肉とで、かろうじて人の姿をした黒髪の少女……その虚ろな赤い瞳が、どこまでも底知れぬ闇をはらんでいる。

「今のは……そうだ。今のが、サキさんなんだ!」

 迷わずトゥリフィリは、両手を上げて遅い来る死者へと銃爪(トリガー)を引く。
 ベシャリ、と湿った音が響いて、周囲の墓石に赤黒いものがぶちまけられた。そして、トゥリフィリははっきりと肉眼で確認する。
 周囲に、ゆっくりと同種の憎悪、嫌悪すべきドス黒い気配が満ちてゆくのを。
 あっという間にトゥリフィリは、死さえ弄ばえるかつての仲間達に囲まれたのだった。

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