歌が聴こえた。
小さく零れた言の葉が、旋律を伴い音楽を奏でる。
凍えた冬の空気が今、静かに音階を震わせていた。
トゥリフィリも確かに、鼓膜に優しく触れてくる調べを感じていた。
マキシマ大佐に囚われている小さな少女から、歌が微かに響いてくる。
アヤメのささやかな抵抗に、マキシマ大佐は血走る目を見開いた。
「なっ……小娘っ! なにを歌うかっ、なにを!」
マキシマ大佐はアヤメの髪を掴んで、吊るし上げるように揺さぶった。
だが、途切れることなく歌は静かに広がる。
ありふれた流行歌の、この場に不釣り合いな夢と希望の
「突然歌うよー、的、な……わたし、竜もマモノも、倒したこと、ない、けど」
「けど、なんであるか! ええい、総員
「今、この、瞬間……わたしが歌えば、時間は止まる。この一瞬、数秒でも……意味が、ある、気がする、から」
「なんのための時間稼ぎかっ! 不愉快であるな、小娘っ!」
しんしんと降りしきる雪の中で、アヤメの歌が全てを止めていた。
居並ぶ兵士たちの、銃を握る殺意を押し留めていたのだ。
しかし、勇気を振り絞ったその声が、マキシマ大佐の怒りを撃発させる。忌々しげに舌打ちをするや、彼は乱暴にアヤメを戦車の上から突き落とした。
「アヤメちゃんっ!」
咄嗟にトゥリフィリが飛び出そうとする。
だが、銃弾が彼女の影を縫い止めた。
そして、トゥリフィリに代わって小さな機械音がアヤメを抱き止める。
新雪を散らして滑り込んだリコリスが、ギリギリでアヤメを救った。
途絶えた歌が、すぐに戦場の殺気立つ雰囲気を呼び戻す。
冷たい包囲網の中で、誰もが銃口に睨まれ絶体絶命。
ナガミツがぽつりと呟いたのは、そんな時だった。
「……やべぇな。フィー、ちょっとこっち来い」
「え? な、なに、ナガミツちゃん」
「いいから! そこ、危ねえからよ!」
「危ないって、なにが――」
あまりにも唐突、突然過ぎる爆音だった。
遠くで吠えるエンジン音は、あっという間に急接近。アスファルトを
なにかが高速で近付いてくる。
それは表通りのド真ん中で、今まさに勝利の仁王立ちで笑うマキシマ大佐の背を襲った。
突然、黒い影が宙を舞う。
折り重なる戦車の残骸の上、マキシマ大佐の頭上をなにかが超えて、飛んでいた。それはトゥリフィリの動体視力では、リムジンのベンツに見えた。
「なっ、ななな、なにごとであるかっ! 総員、現状維持っ! 私を守れ!」
突然割り込んできたのは、黒塗りの高級車だ。全速力でジャンプし、兵士も戦車も超えて……そして落下と同時にスピンして目の前に横たわる。激しい衝撃音で、あっという間にスクラップの出来上がりだった。ボンネットが煙とともに跳ね上がって、まるでコメディ映画のワンシーンである。
だが、マキシマ大佐とトゥリフィリたちの間に割って入った車体から……場の空気を一変させる声が響き渡った。
「そこまでですっ! 大佐、兵をお
若い女の声だった。
動かなくなったリムジンから現れたのは、着物姿の女の子だった。年はそう、トゥリフィリより少し上か……だが、和装の麗人は清冽な怒りを静かに研ぎ澄ましていた。
その横顔を見て、トゥリフィリの脳裏に突然のヴィジョンが乱舞する。
思わず指差せば、震える手が全てを思い出させてくれた。
「あ、あーっ! ええと、あなたは! いつかの夢の……何度も出てきた!」
そう、トゥリフィリは彼女に会うのは初めてではなかった。何度も擦れ違っていたし、幾度となく出会っていた。トゥリフィリの意識が現実から離れる時、未来の思い出とでも言うべきヴィジョンの中に彼女はいた。
現実で初めて顔を合わせれば、その一瞬の連なりが凝縮されて思い出される。
長い黒髪の少女は、肩越しにトゥリフィリを振り返る。
その頭部には、狐のようなふさふさの耳が揺れていた。
「あら? まあ! まあまあ、まあ!
「やっぱり……ええと、ぼくはあなたを知ってる、気がする。けど、これは」
「ようやく会えましたわ。そう、ここで交わるのですね。この……このっ」
瞬間、誰もが言葉を失った。
決然たる怒りに震えていたナガミツたちも、勿論トゥリフィリも目を丸くする。
見目麗しき
「この、泥棒猫っ! ……ふう、すっきり」
「い、いや、ちょっと……ぼく、意味がよくわからな――泥棒猫?」
「ええ。当世ではそういうのでしょう? わたしのキリ様をたぶらかして、もうっ!」
「キリ様……キリちゃん? え、あ、なんか意味がわからない、けど」
あまりにも唐突、そして意味不明だった。
だが、一人で勝手にすっきりした顔で、和装の少女は再びマキシマ大佐に向き直る。
「さて、マキシマ大佐。もう一度だけ言います……兵をお退きなさい。地の
場違いな程に堂々と、彼女は名乗って命令を叫んだ。
当然、トゥリフィリは意味不明過ぎて混乱したままである。だが、確かに空気が変わった……謎の美女アダヒメは、毅然とマキシマ大佐を見据えてたじろがせる。
同時に、以前キリノが話してくれたこの国の……日ノ本の古い一族を思い出す。
「地の湯津瀬……? キリちゃんちの、天の
アダヒメは腰に手を当て、兵士たちを見渡し鼻を鳴らす。
周囲はトゥリフィリ以上に混乱していたが、すぐに暴力装置の顔を取り戻した。狼狽えるマキシマ大佐とは対象的に、優れた兵士たちの銃口が仕事を思い出す。
あっという間に無数の射線が、残らずアダヒメを串刺しにした。
だが、彼女は全く動じず静かに息を吸って、声と音とを呼気に乗せる。
「下がりなさい!」
――それは
アダヒメの一言が、空気の振動である以上の意味を言葉に着せていた。たった一言命じただけで、居並ぶ兵士たちが彫像のように固まる。
あのマキシマ大佐さえ、戦車の上で硬直してしまった。
同時にトゥリフィリもまた、恐怖と寒さを忘れてゆく。
「まったく、なんです? 先日の大戦では鬼畜米英とか言っておいて……己の方がよっぽど極悪非道です! もはや日ノ本は、あなたたちのような人間の時代ではないのです」
「ぬっ、ぬぬぬ……ええい、女!」
「女ではありません! わたしはアダヒメ、この国の守護者にして調停者、湯津瀬のアダヒメです!」
「ぐぬぅ!」
歯切れのいい言葉に、
そして、唐突に交わる運命の中で今……トゥリフィリは
一変した空気の中、気付けば雪がやんで……そして気付けばトゥリフィリはアダヒメの横に一歩を踏み出していたのだった。