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 その部屋は確実に、色濃い死の影に覆われていた。山猫亭の中でも一番高価なキングルーム…その広い天蓋付きベットを中心に。大勢のハンター達に囲まれ、暗く重い空気が落ち込む先に、マーヤの捜し求める人物が居た。キヨノブに連れらドアを潜るが、振り向く者など居はしない。

「!…か、義母さん?何でこんな」
「黙って見てろや」

 そう言ったきり、腕組みしたまま口を噤むキヨノブ。その視線を吸い込む先へと、マーヤは人混みを掻き分け進んだ。次第に足早に、広い室内を小走りに急ぐ。やっと開けた視界に義母の全身を捉え、安堵と共に声を掛けようとして。マーヤは言葉を失った。死はもう、すぐ目の前にあった。

「ありゃもう駄目か?まだ若ぇのに…」
「んな訳ぁあるかっ!あるかよ、クソッ!」

 クエスラは寝台の枕元へ腰掛け、胸に一人の少年を抱いていた。すぐ側には医者らしき人物が目を伏せ佇む。怪我人には事欠かないこの宿で、長年荒くれ者達の面倒を見てきた老医師。その彼が何をするでも無く、落ち着かない様子で懐中時計を弄んでいた。普段から世話になってるハンター達も、ただただ悔しげに絶望を零す。
 少年は先日、瀕死の重傷でこの宿へ運ばれて来た。凱龍の哀れな犠牲者として。その指示を出した者の意図した通り、ここにはあらゆる怪我を知る者達が居る…山猫亭は常に、ハンター達の最前線でもあるから。適切な処置で延命を施されながら、彼は待った。一日千秋の想いで、彼自身を救ったこの宿の女将を。日々弱り朽ちてゆく身で、迫る死の恐怖と闘いながら。

「あ、ああ…アンタか?は、はは…帰って、きゴホッ!」

 僅かに目を開け、浅い眠りから覚める少年。現実世界は激痛で彼を迎え、苦悶をもって生ある命を自覚させる。咳き込み血を吐きながら、赤黒く染まるクエスラの包帯を汚して。彼は待ち人に抱かれて初めて、その生還を知って唇を歪めた。その血を優しく拭いながら、クエスラも微笑んでみせる。

「約束しましたもの。どう?誰かの帰りを待つ気持ち…少しは解りまして?」

 僅かに頷く少年。その目に光る涙が、とめどなく頬を濡らした。周囲からもすすり泣く声が忍び寄り、マーヤは苦しげに胸へ手を当てる。眼前で義母に抱かれる少年は、まだ自分と歳も変わらぬ若さ…そして今、その若さを永遠の物としてしまうかもしれないのだ。
 クエスラはただ黙って、優しく髪を撫でる。まるで赤子を抱き、自らの心音を聞かせて落ち着かせるように。穏やかな時間は今、久遠にも近しい一瞬の連なり。息をするのも忘れたように、誰もが沈黙を纏って仲間を見守る。ただ、見送る。何時かは自分も、女将に看取られる…そんな有り得なくもない運命へ想いを馳せながら。ただ一人を除く全員が、同じ想いを胸に祈る。

「アン、タ、さ…ボロボロじゃな、いか…なぁ」
「ええ…でも生きてますわ。貴方も。これからもそうじゃなくて?」

 返事は無い。ただ呼吸は落ち着き、表情にも穏やかさが舞い戻る。クエスラはゆっくりと立ち上がり、少年を寝台へ戻して布団を被せる。弱々しく伸びる手を握りながら、幼子を寝かしつけるように。既にもう言葉が尽きたのを見計らって、老医師も側へ駆け寄った。懐中時計に目を落としながら。

「さ、少しお眠りなさいな…こんな怪我、すぐに治りましてよ」
「いや、もう…」
「貴方もハンターでしょ?しっかりなさい!」
「俺は…」

 少年の声はもう掻き消えて。一言も零さぬよう唇へ耳を近付けるクエスラ。静寂が訪れ、老医師は溜息と共に時計を仕舞う。気付けばマーヤは膝を付き、黙って床の一点を見詰めていた。古びて変色した木の床に、滴る雫が作った染みを。涙に自分で気付いても、それは止まる気配を見せなかった。長く沈黙が続いて、老医師が一言静かに言い放つ。

「クェスや…お前さん、ワシの仕事を全部奪うつもりかね」
「いいえ、これは先生の成果ですわ。毎日ありがと…彼、助かりますわね」

 若いからの、と言い残して。老医師はラムジーを呼び付け、あれこれ細々とした指示を伝えている。クエスラは握る手の指を解き、そっと布団の中へと返す。少年は今、安らかな寝息をたてていた。最後に生へと人を繋ぎ留めるモノ…それは生きる意志に他ならない。それは些細な、しかし大きく温かな支え。周囲のハンター達は呆気に取られていたが、笑顔で力強く頷くクエスラに顔を綻ばせた。死の影を追い払う歓喜が満ち、瞬く間にハンター達は歓声を上げた。唇に人差し指を立てるクエスラに咎められながら。

「ウニャ、了解したニャッ!取り合えず呼吸も安定したし、一安心ニャァ〜」
「この小僧はの…じゃがクェス!何じゃその格好は!しかもその傷…無茶しおって!」
「ほんの掠り傷ですわよん?ほら、怒るとどんどん禿げますわ…あら?…マーヤ?」

 老医師に怒鳴られ、無邪気な笑みで舌を出しながら。クエスラは居並ぶ仲間達の中に我が子を見つけた。人目も憚らず泣いていたマーヤは、義母と目が合い、慌てて涙を拭って立ち上がる。見詰め合う二人…しかし、喜びに沸き立つ周囲のハンター達が、直ぐにクエスラの回りに殺到した。その光景を目に、何か吹っ切れたかの様に踵を返して。マーヤは一人、黙って部屋を後にする。

「流石は山猫亭の女将だ!死人だってオチオチ死んじゃいられねぇよな、オイ!」
「女将さんも凄い怪我…やっぱ銘入の飛竜って凄い!でも…今日の女将さんはもっと凄い!」

 絶対安静を告げる老医師ごと、仲間達に揉みくちゃにされながら。人混みの向こうにドアの閉まる音を聞いて、クエスラはしかし身動きが取れなかった。去り行く息子との距離が、このまま永遠に擦れ違いで終わるような、そんな予感が彼女を焦らせるその時。不意に道が開け、クエスラは手を引かれた。

「急げ女将、追い掛けないでどーするよ?走れっ、クェス!」

 そのまま人波を掻き分け、ドアまで辿り着いたクエスラは。皆を塞き止め袋叩き同然のキヨノブに背を押されて。意を決してふらつく足取りで、マーヤを追って廊下へ躍り出た。

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