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 声が聞こえる。耳を塞いでも頭の中へ直接響く、それは古龍の思念。イザヨイの手から急激に、金髪の少女の温もりが遠ざかった。語りかけて来るのは間違いなく、目の前に横たわる老山龍。

『古き血に連なる者よ…受け取…遺産…記憶…』

 途切れがちに響く声と共に、イザヨイの脳裏で花開くイメージ。見た事も無い光景が咲いては散り、認識しきれぬ膨大な情報が、濁流となって流れ込んで来る。目を瞑ろうとも眩しさからは逃れられず、耳を塞いでも声と音は消えない。
 多くの人と膨大な時間が、一瞬で我が身を通り過ぎた。幾千の繁栄と幾億の動乱…長い戦争と短い平和の歴史。そこに生まれて生き、息絶えて死んだ一人一人まで。抗う事無く翻弄されるイザヨイは、無数の記録と人生を流し込まれて呻いた。

「誰?…やめて、これ以上…私のチカラを引っ張り出さないでっ!」
「いっちゃん!しっかりして、いっちゃん!」

 不意に意識は現実へと舞い戻り、激しく肩を揺さぶられて。気付けばイザヨイは、先程と変らずメルの腕の中。一人冷たい汗に濡れながら、突如取り乱して身を捩っていた。その顔は血の気も失せ、陶磁器のように蒼ざめて。突然の異変に驚きながらも、空色の瞳が心配そうに見詰めて来る。離れていた僅かな時間で、イザヨイは自分でも驚く程に豹変を遂げたというのに。そっと寄り添うその視線は、普段と変らぬ温かさに満ちていた。

「だいじょぶ?ビックリした…いきなし気を失ったかと思ったら」
「…ごめんね、メル。私、何分くらい意識が無かったのかな」
「ん、ほんの一瞬だったよ?それより、いっちゃん!早く逃げ…」
「逃げろぉ!こいつぁ危ねぇ、決壊すんぞぉぉぉっ!」

 気付けばもう、勝利の余韻は微塵も感じられなかった。僅かな残り香程にも。誰もが手に一杯の戦利品を抱えながら、自分の武器を拾って走る。逼迫した空気からは直ぐに、命の危険が見て取れた。手を引くメルに連れられ、おずおずとイザヨイも走り出す。恐る恐る振り返れば、打ち倒された老山龍はピクリとも動かない。その瞳にはもう、僅かな光さえ感じられなかった。

「ふぅ…勝負は水物、とは良く言ったもんだな」
「フリック!何を呑気に…逃げるんだよ!こりゃお手上げさねっ」
「ちょいと無理をしすぎたかのぉ。計算ではもう少し強度があっても…」

 膨大な水を湛えたダムは、自らの水圧に屈しようとしていた。既に亀裂が無数に走り、そこかしこで水が溢れ出す。水圧は僅かな隙間も見逃さない…一度決壊を始めたダムは、瞬く間に谷全体を覆うだろう。老山龍が踏破してきた道筋を、荒れ狂う濁流となって洗い流す。谷底へ降りた者達は今、その古龍に勝るとも劣らぬ脅威に曝され、懸命に生還への道を探っていた。

「谷の外まで走るぞ!武器や鎧は捨てちま…ダメだっ!入り口は爆破で埋まってらぁ」
「おいアンタ、その素材やら何やらも捨ててけや…命あってのハンターだぜ?」
「ううむ…甲殻はがさばるから諦めるスけど、この鱗は…って、それどこで無いス!」
「チョイマチさんくタン!走ル方向逆ト思ワレ…アーモォ、イクナー!」

 逃げる者達を掻き分け、一部のハンター達がダムへと走る。徐々に広がる亀裂はまだ、傍目には僅かな線に等しい。それはサンクにとって、手で押えれば塞がりそうにさえ思える。学が無くても賢い筈が、その姿は眩暈するほどに愚かしい。考える前に既にもう、策も無いのに身は馳せる。そして大馬鹿者は一人では無かった。

「くっ、これから乾季だってのに…間に合うか?いや、考えるよりウワッ!」
「いけません!ユキカゼ様、貴方は行ってはいけません…そんな身体では」
「みんなっ、荷物を捨ててラオに登るでする!谷に沿って逃げちゃダメっ!」

 軽々とユキカゼを肩に担ぐと、何時に無く強い口調でアズラエルは叫んだ。呆気にとられるユキカゼにはもう、逆らう体力も気力も無い。遠目にもはっきりと亀裂が広がり、溢れ出る水量がどんどん増してゆく。その真っ只中へ、飛沫を上げて駆けながら…仲間達の背中が小さくなっていった。もはや何も出来ぬ彼を乗せ、苦も無くアズラエルは古龍によじ登る。続く多くのハンター達も皆、必死で生還を掴むべく死力を振り絞った。

「馬鹿野郎っ、お前っ!…逃げろサンクッ、これはもうダメだ!」
「うんにゃっ、まだ大丈夫ス!フリックこそ早く逃げるスよ…グスッ」
「チョイマチさんくタンッ!先ズハモチツケ、コイツハモウ駄目ポ!」
「ああツゥさん、そこ抑えてッス!ああここも…うえーん、手が足りないス〜」

 手で亀裂を覆っても、水は虚しく指の間を流れ出る。既にもう、決定的な一瞬への秒読みは開始されていた。上で叫んでいたフリックの声ももう聞こえない。無我夢中で無駄とも気付かず、サンクは必死でダムを支えた。大柄な彼女も、巨大なダムの前では無力に等しいが。

「水が無いと村が干上がっちゃうス!畑も池も干上がって、乾季が越せなくな…」
「目ェ覚マセ!…これからの事もいいけど、今の命を大事にする!ハンターだろ?な?」

 ツゥがサンクを引っぺがしたのは、大きな亀裂が音を立てて走った瞬間と同時。いよいよ滝のように流れ出る水は、大決壊の瞬間には鉄砲水となって谷を覆う。老山龍の背で手を振る仲間達目指して、ツゥは泣きべそのサンクを連れて走り出した。人目も憚らずおいおい泣く彼女はしかし、手にしっかりと剣を握って。引く手が重いのはしかし、どうやらそれだけが理由では無いらしい。何ヨリモ重イナ…そっと苦笑。

「シッカリ走ルゾネ!古龍ハ斬レテモ水ハ斬レネ…勝負ナンネーゾゴルァ!」
「ひっく、ひっく…自分ら負けスよ…村が守れてもこれじゃ、村の生活が…」

 背後で轟音が響いた。積み上げた岩石が弾け飛び、補強に入れていた鉄筋が捻じ曲がる。粗末ながらも限りある資材で、効率良く築かれた急造ダムは…予想を遥かに超えた負荷に耐え切れず、その短い役目を全うして決壊した。瞬く間に水の壁が背後に迫り、ツゥはサンクを引き摺って走る。

「泣くなバカサンク、走れ!勝ち負けとかゆーなっ!そんなん、まだずっと先だもん!」
「チョイト水浴ビニハ早エ季節ダシナオイ!どざえもんハ勘弁シテホ、シッ!?」

 躓いた。前のめりに吹っ飛んだ。そのまま転んで、立ち上がる間もなく水に呑まれる…ツゥの胸中を一瞬過ぎる、諦めという名の安堵感。しかしすぐさま、それは力強く払拭された。引っ張る側から引っ張られる側へ。剣を捨てたその手で、サンクはツゥを引っ張り上げると、そのままたどたどしく走り出した。
 涙と鼻水でグシャグシャになって、呼吸を貪るように大きく息を吸って吐いて。サンクは大声で泣きながら走った。背後に迫る轟音に負けぬ音量で、火が付いたように泣き続けた。メルに支えられて走るイザヨイは、その姿をしっかりと心に刻み付けた。有史以前より続くこの星の記憶や、人類の英知や希望よりも強く。しっかりと。

「メルちょ!掴まるでする!いっちゃんもっ!」

 身を乗り出して小さな手が伸べられる。ツゥを押し上げるサンクもまた、多くのハンター達に引っ張り上げられた。直ぐそこに飛沫を浴びながら、懸命に生へとしがみ付く。異能の力を身に秘めて尚、大自然を前に小さすぎる人間を実感する瞬間。だが、それでも構わない…今まで手を引いてくれたメルを、イザヨイも全力で引っ張り上げた。が、その手から突如力が抜けた。強く握るメルの手はもう、握り返す事無くスルリと抜け落ちた。

「ごめ…忘れて、た…あんま動いたら、だ、め…」
「メルッ!」

 ラベンダーの手を振り解いて、イザヨイは落下するメルの小さな身体を追った。彼女達は瞬く間に荒波へと飲み込まれ、岩をも砕く激流へと消えていった。誰もが皆、言葉を失い…古龍の背に呆然と立ち尽くす。水は衰える事を知らず、全てを洗い流すように谷を削った。

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