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 光差す天井は高く、集いし冒険者達のざわめきを吸い込んでゆく。
 ここはアーモロードの元老院。行政のいわば心臓部である。かつて王国だったのも百年の昔、今は王家の末裔を守りつつ、元老院の老人達が海都の一切合切を仕切っていた。
 メビウスは今、コッペペを含む大勢の冒険者達と元老院の大ホールにいた。
「……なんて顔してるんだい、まったく。おおかた身から出た錆だろうけど」
「いやぁ、あの女な、グーで殴るんだぜ? それがまた、顔面にガツーンとこう」
「エミットさんと一緒なのを見た時から、いつかやるなと思ったけれど」
「おうよ。据え膳食わぬは男の恥だからな。……リシュリーちゃんやまなびはまだ早ぇしよ」
 ニシシと懲りない笑みのコッペペは、頬が真っ赤に晴れ上がっている。
 きっちりと刻まれた拳の形が、鮮明にメビウスには見えた。
「……定宿変えようかな。お前、うちのエイビスにも言い寄っただろ。懲りもせずまた」
「いやあ、オイラの挨拶みたいなもんさ。御婦人に好意を寄せないのは非礼にならぁ」
 コッペペという男が底なしの助兵衛であることは、メビウスは熟知していた。もっとも、幸か不幸か自分が彼の射程範囲の、小さな小さな落とし穴にスッポリはまっているため、実感したことはないが。兎に角、目の前で無意味な自信を漲らせる男は、全世界の半分の敵なのだ。
 だが何故か、全世界の半分の、そのごく一部に熱烈に愛されてしまうのだ。
「しっかし、リシュリーちゃんのカボチャパンツは想定の範囲内だが、まさかエミット女史が」
「何? まだ言ってんの? ……他のギルドの連中、笑ってるよ。ぼくまで一緒に見られちゃう」
「いやな、澄ました顔してなかなかに色香の匂い立つような――っと、まあこの話はこの辺で」
 不意にコッペペが話を切り上げた。周囲が噛み殺して殺しきれぬ笑みを、他ならぬメビウスにも向けていたから。自分ならいざ知らず、親しい者を笑いものにできるほど、コッペペは無作法ではなかった。
 そんな所だけは真摯な古い知己に、メビウスも鼻から溜息を零す。
 同時に、ついつい過ぎ去る話題を追いかけてもしまう。
「……やっぱみんな、色っぽいネグリジェとかで寝てるのかなあ」
「ま、人は人、自分は自分だ。お前さん、エミット女史やエイビスと張り合う気もあるまい?」
 まだ痛むのか、コッペペは左の真っ赤な頬をさすりながら、ぽつりと呟く。
 隣の男が生まれながらの、生粋のたらしだと再確認しつつメビウスは、
「やっぱそうかな? うん、よく考えたら寝巻は人に見せるものじゃないしな」
 何か得心を得たように頷き腕を組んで、僅かに赤毛の三つ編みを揺らす。
 メビウスは今もって、他者に見せる為の寝巻や、脱ぐ為に着る下着が解らないでいた。
 そんな彼女を見透かすように、へらりと笑ってコッペペがうっかり口を滑らせる。
「うんうん。お前さんは今のジャックフロストパジャマにナイトキャップが一番だな」
「! ……覗いたな? また……ハイ・ラガートであれほどとっちめたのに!」
「いや待て、違うんだ! エミット女史の部屋に行く途中、お前の部屋の窓が――」
 モンクに転職したばかりとは思えぬ、腰の入った拳が空気を切り裂いた。
 メビウス怒りの鉄拳は、正確にコッペペの頬を、腫れた方と逆側をブチ抜いた。大きくのけぞりよろめくコッペペの襟首を掴んで引っ張り、周囲を視線で黙らせる。
 恥ずかしさに高揚する頬が熱い。
「やっぱり宿を移す!」
「イチチ……っと、始まるみたいだぜ? 元老院のお偉いさんの登場だ」
 綺麗に左右の頬を朱に染め、それを痛みに呻きつつ抑えながらコッペペが顎をしゃくる。
 同時にメビウスは、周囲の冒険者達が騒がしくなる声の先へと目線を投じた。
「今日はわざわざご足労だねえ。あたしゃ、この元老院を取り仕切るもんだよ」
 白髪の老婆が皆の前に現れた。老いて尚かくしゃくとしたたたずまいで杖を突いている。その声は静かでしゃがれているのに、誰の耳にも等しく重く響いた。厳然たる存在感にメビウスもコッペペも息を飲む。


 老婆は自らをフローディアと名乗り、ホールに集いし面々を見渡して言葉を紡いだ。
「さて、今日集まって貰ったのは他でもないよ。あんたらは迷宮の先に進みたい、そうだねぇ?」
 誰もが顔を見合わせる中、メビウスもまたコッペペと顔を見合わせた。
 次第に騒がしくなる冒険者達の中から、そうだそうだと声があがる。それに応えるように、
「だったら元老院のミッションを受けてもらうよ。これは資格を問う試練……他に道はないさね」
 フローディアは喉を鳴らして低く笑うと、発する声に鋭さを含ませた。
「このミッションを踏破できない冒険者は、迷宮の先へは進ませない。……死んでしまうからねえ」
 しわしわの顔を柔和に歪ませつつも、フローディアの目元は笑ってはいない。その鋭い鷹のような視線が一瞬、ギルドマスターとして思案を巡らせるメビウスとかち合った。
 交錯する眼差しが刹那の間に、大衆の中で一人と一人の空気を作り出す。
 メビウスは一瞬、フローディアがニヤリと自分に笑いかけた気がした。
 その意図するところを拾って吸い込み、メビウスもまた不敵な応答を返す。
「おばあちゃん、つまり元老院が見込んだ冒険者なら……先に進んでもいいってことだよね?」
 目を点にして、メビウスの無遠慮な一言に意表を衝かれたフローディア。彼女はしかし、次の瞬間にはメビウスの小気味よさに声をあげて笑い出していた。
「おやおや、元気な小僧がいるねえ。そうさ、第一階層最深部に巣食う魔魚ナルメル……これを倒せぬ者に、その先へ進む資格はないよ。フフフ、話がはやいじゃないかい」
「生憎とぼくは小僧じゃないけど。でも、そういう手合いには慣れてるんでね。な?」
 勝気な笑みを目元に浮かべて、両頬を押さえたコッペペの胸をトン、と叩く。
 だらしのない緩んだ空気が一変して、コッペペは短く「おうさ」と応えた。同時に改めてフローディアに向き直ると、いつもの紳士スマイルを作り始める。
 相手が老婆でもお構いなしの態度に呆れ返って、一周巡り巡ってメビウスは感心してしまった。
「レディ、そのミッションは我々冒険者が必ずや……オイラのトライマーチが必ずや」
「ホッホッホ、威勢のいい小僧がもう一人かい? うれしいねえ。期待してるよ」
「こ、小僧……ゴホン、ま、まあいいや。それで、その釣り上げる魚ってのは? 強ぇのかい?」
 コッペペの無知に周囲はざわめいた。冒険者達の中には、既にその脅威を耳にしていたものも少なくなかったから。魔魚ナルメル……第一階層の最深部、泥に濁った沼に身を潜める恐るべきモンスター。
「兎に角、ナルメルを討伐するんだよ。全てはそれから……まだ始まってすらいないねえ」
 フローディアの言葉がズシリとメビウスの双肩に圧し掛かってきた。
 目の前の老人は嘘は言っていない……まだ、世界樹の迷宮を巡る冒険は始まってすらいない。
「で、トライマーチだったかねえ? そっちの小僧の……お嬢ちゃんのギルドは?」
 多くの冒険者が、それもこの街のギルドマスター全員が集まる中、フローディアは杖の先をメビウスに向けてきた。メビウスはただ、どうどうと胸を張って応える。嫌に薄く平らな胸を張って。
「ぼく達はソラノカケラ。名を売るつもりはないけど、問われて名乗る名は常に一つだ」
「そうかい、トライマーチにソラノカケラ……覚えておくよ。他のギルドもみんな、みんなねぇ」
 その言葉に、我先にと周囲も名乗りを上げだした。静かに滾る元老院のカリスマが、血気に逸る冒険者達を煽っていた。その先に待つは、死と隣り合わせの魔魚退治。
「オーケー、レディ。オイラから最後にクエスチョンだ」
 歓呼にも似た喧騒の中、メビウスの隣でコッペペが声をあげた。男女を問わぬ多くの声が乱舞する中、フローディアは伊達男を気取った金髪のパイレーツに視線を落とす。
 会話が成立すると見るや、コッペペの目が僅かに真剣みを帯びた。彼が発した問いは、隣のメビウスもまた胸の内に秘めていた一つの疑問符。
「オイラ、迷宮でカワイコチャンに出会っちまった訳よ。ご丁寧にテントまで貰っちてよ」
「おやおや……面白い話だねえ。小僧、もう少し詠いな」
「こちとら歌うが本業のカナリアでね。……オランピア。ありゃ、元老院の派遣した人員かね?」
 コッペペの言葉に力が篭るや、フローディアはしばしの沈黙で応えた。
 オランピア……その名に聞き覚えがある者達がにわかに騒ぎ出す。誰もが皆、冒険者に助力する者として認知し、テントを分け与えて貰っていた。勿論、他ならぬメビウス自身も。
「あれか? レディ。クジュラとかってのと同じで、元老院の手の者とオイラは睨んでんだが」
「フフッ、賢い子は好きだよ、あたしゃ。その真実も全て、資格を得てから……解るねえ?」
 愉快そうに再度笑うフローディアに対して、コッペペは言葉を突きつけるのをやめた。
 稀に見る決然としたその横顔に、メビウスも秘された真意を察して黙る。
 かくして、決戦の火蓋は切って落とされた。魔魚ナルメルの討伐……それは、この街で世界樹の迷宮に挑む全ての冒険者に突きつけられた試練。メビウスもまたコッペペ同様、退くことなく正面からこれに挑むつもりでいた。
 必定、ソラノカケラもトライマーチも、その他多くのギルドも……流血の激戦へと放り込まれることになった。

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