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 深都の昼は昼と言うには薄暗かったが、夜になってみればまた別だ。見上げる海に月はなく、流れる雲の代わりに魚影が時折泳いでゆく。そして街灯りは燦然と冷たく、夜と言うには薄明るい。そんな遠景に目を細めながら、エミットは火照った頬をくすぐる夜風に髪を遊ばせていた。
 部屋に明かりはなく、既にエミットも一足早くネグリジェに着替えた。さらに早く彼女の姪にして妹は寝付いており、二つあるベッドの片方に大の字で安らかな息を立てている。その乱れた寝具を直してやると、再度エミットは窓際に腰掛けた。
「……らしくないか。酔っているのか。酒にか、あるいは」
 宿の食堂からはまだ、仲間達が騒いでいる声が微かに聞こえる。今宵は全てが深王持ちと知って、宴会を始めたのはだれであろう、彼女のギルドのマスターだ。それでも騒げる時に騒いで気を安らげ、貰える物は貰って甘える厚意には甘えるのが冒険者の常だ。
 ぼんやりと庭の茂みを眺めながら、エミットは再度酔っているのだと自分に言い聞かせる。
 そう、酔っているのだ……一時のことだと胸中に結ぶも、深王の言葉が耳から離れない。
「や、リシュリーはおとなしく寝たかい? さっきはあんなにはしゃいでたけど」
 不意に後ろで声がして、小さく開いていたドアの隙間から声が忍びこんできた。
「はしゃぎ疲れたのだろう。すぐに寝てしまった。……少しいいか、メビウス」
「うん? ああ、構わないけど。ってか、ちょっと心配で様子を見に来たんだ」
 そっと音もなく扉が開いて、片手で三つ編みをいらう人影がぼんやりと浮かび上がった。メビウスはもう片方の手にボトルを二つ持っており、その片方をゆっくりと投げてくる。エミットが受け取れば、深夜の来訪者は静かに気を使って窓際に並んだ。
「食堂で売ってた。機械があってね、コインを入れると飲み物が出てくる。不思議なもんだねえ」
「いただこう。……随分と冷えてるな」
「ね、それもちょっとまた不思議でさ。深都は色々と、海都にはない技術があるみたいだ」
 少し戸惑ったが、エミットはメビウスを真似てボトルを開封してみる。冷たさが白く煙って立ち上る、その中から微かに果実の匂いと炭酸の音が放たれた。初めて鼻孔をくすぐる香りに躊躇するも、隣でメビウスは何のためらいもなく一口飲んで、
「うん、美味い。けど、なんだろう。うーん、柑橘系ではないな」
 珍しい飲み物を前に、少年のように横顔を輝かせている。そんな彼女を見てると、ふとエミットの視線に気づいたのか、メビウスは向き直った。
「? どうした、メビウス。リシュリーなら心配ない。いつも気にかけて貰って助かる。先日も――」
「や、それは毎度のことだけど。ぼくが心配してるのはエミット、君のことだよ」
 意外な一言に、口元に運ぶボトルが止まる。手の内ではシュワシュワと、清涼感のある炭酸が弾ける音。
「心配? 私がか?」
「うん。なんだろう、珍しく今日は飲んでたみたいだし」
「私は酒は嫌いではないぞ。それなりに飲むし、むしろ飲める方だ」
「でも、飲み過ぎじゃないかなって見えたから。……何かあった? 深王のことで」
 聞いてはくるものの、その実メビウスは知ってるのだとエミットは思う。彼女の元にも先程、トーネードと名乗る深都の騎士が、深王代理騎士がギルドメンバーとして加わったのだから。今日の宴が一際賑やかだったのは、新参の新顔が深都の人間にしては珍しく社交的で、その上友好的だったから。
 だが、エミットの珍しい深酒は、それだけが理由ではない。


「……私は、真の王を見つけたのかもしれない。そう思って、ついな」
「珍しいね、王様嫌いのエミットが。権威とか、苦手なのかと思った」
「王たる者が全て、父のようなケダモノではないと知ったのだ。……そうだと、いいと思う」
 眠らない街、深都の淡い光が、月明かりに代わって部屋に差し込んでくる。それが長い影を引き出すに任せて、二人は窓辺に異郷の地を眺めて語らった。ひそやかにささやく言葉には、リシュリーの寝言と寝息が入り混じる。
「メビウス、私は、私はな――」
「ん、ちょっと待った。……そこだっ!」
 不意にメビウスはエミットの声を遮り、ボトルを飲み干す。うっすらと綺麗に伸びた喉をエミットがぼんやり眺めていると、彼女はボトルを空にするや庭へ放り投げた。季節の草花の奥へと消えて、それは男の悲鳴の二重奏を奏でる。同時に、カコンと金属にボトルがぶつかる音がした。
「出てこいよ、コッペペ。それと、驚いたな。深都の騎士様、夜の通いには少し早いんじゃない?」
 窓から身を乗り出してメビウスがニヤリと笑った。
「はっはっは、いやいやこれはお恥ずかしい。……コッペペ氏、話が違いますまいか?」
「いちち、何かオイラこの展開前にも……よ、よぉ! 奇遇だな、二人とも!」
 頭を、被った兜をさすりながら、二人の男がのっそり現れた。その気配を全く察知してなかったエミットは正直に驚いたし、その片方にはまたかとも思ったが。それを悟れなかったのはやはり、メビウスも言うとおり今日は飲み過ぎているのだろう。
 腰に手を当て眇めるメビウスの、無言の笑顔に圧力負けしてコッペペとトーネードは退散していった。
「よしっ。……エミット、気をつけなよ。トライマーチじゃ美人は苦労するんだから」
「デフィール殿もそう言ってたな。ふふ、まあ褒め言葉として受け取り、以後気をつけよう」
「うんうん、それで? なんだっけ」
「……いや、いい。ただ、私もまた見つけたのだと思ってな。今は、それを信じたい」
 酒気が霞んで頭にもやを漂わせている。だから僅かに重いまぶたを擦りながら、エミットは言いかけた言葉を飲み込んだ。メビウスもまた追求するでもなく、ただ「うん」と頷いた。
 新たなる王の存在がエミットに、いつもより少しだけ酒をあおらせた。だから今、普段より少し多弁になる。そんな時、会話を合わせるでもなく、聞き入るでもなく、ただ様子を見に来てくれるメビウスがありがたかった。だから、つい口をついて出そうになる故郷のことも引っ込んでしまう。善政ながらも狂った獣を秘めた父王、その毒牙から自分を守って禁忌を犯した双子の姉……そして、その末に異形の躰で生まれてしまった妹にして姪。全ては今、この静かな夜に友と語るには相応しくなかった。
 話を引っ込めたエミットに代わって、メビウスがポンと手を叩いて口を開いた。
「そうそう、それより……サブクラス、どうする? 話は聞いてると思うけど」
 珍しくメビウスが、困ったように眉根を寄せて腕組み唸った。聞きなれぬ単語もしかし、他のギルドのメンバーと一緒に説明を受けていたので、エミットにも心当たりがあった。真なる王やもしれぬと、そう思えるだけの人物を見つけた今は……既に、心に決めてさえいた。
 それをあっさり、メビウスはさして気にした様子もなく言い当ててみせる。
「エミットはプリンセスだろ、ぼくは……うーん、今それでちょっと困ってるんだ」
「貴公、どうしてそれを。まあ、一度は捨てた名だが、いいだろうと思ってな」
「そっかー、ぼくはドクトルマグス! ……って具合にはいかないしなあ。うん、悩んでる」
 そう言うメビウスはしかし、クスリと笑って見せる。エミットは自分もまた笑っていたのだと気付かされ、互いに声をひそめて笑いあった。思えば生まれを呪って家を憎んた、その日には想像もつかなかったことだ。自分に流れる血が、まさか冒険者として役立つ日がこようとは。
「はっはっは、お嬢様方……サブクラスでお悩みですかな? ではワタシの出番という事でしょう」
 懲りない。それどころか、悪びれない。その声は颯爽と、むしろ清々しささえ引き連れて現れた。今度は正面のドアから。潔ささえ感じて、エミットは呆れることを忘れて感心してしまう。
 再び現れたのは、先程メビウスが追い払ったトーネードだ。律儀に兜をかぶっている。
「サブクラスとは、ワタシ達深都の機兵が戦う術を強化する為に編み出した技」
「そういう話だったね。ええと、例えばそう、トーネード。君は確か――」
「ワタシは剣を、ウォリアーを修めておりますれば。この深都のアンドロは皆、そうです」
「海都の冒険者達、その戦いの術を引き継ぎ習得する術、か」
 左様にございます、と兜の向こうで微笑む気配。トーネードの声は朗々として、それでいて静かに染み渡る。安眠を妨げられることなく、リシュリーは小さないびきを微かにかいていた。
「……まあ、ぼくはもう少し考えてみるよ。他の仲間達とも相談したいし」
「サブクラスに関するご相談でしたらいつでも。ワタシの専門でもありますし」
 わざわざうやうやしく頭を垂れてみせる、そんな所作だけは一人前の騎士らしい。あまりにも堂々としてるので、女性の寝所に忍んできたということすら忘れ、咎めることすら考えられない。
 メビウスははいはいと笑って肩を竦め、エミットもそれに倣った、その瞬間。
「ふにゃ……わたくしは、おばねーさまと同じがいいですわ! ファランクスにしま、むにゃ……」
 ガバリと突然起き上がったリシュリーが、宣誓し終わらぬうちからへにゃへにゃとベッドに崩れ落ちる。どうやら寝ぼけているようで、トーネードも「おやおや」と笑いながら部屋の外に出た。
「ではお姫様方、また明日……おやすみなさいませ。どうか良い夜を」
 どうやらトーネードは今夜は諦めたようだったが、その引き際も鮮やかで感心してしまう。そんな呑気な、しかし静かで豊かな夜は更けていった。

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