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 その牢獄は灼熱の大広間中央、爛れた茨の茂みに覆われていた。うろつく火竜を避けつつ、メビウスはオランピアの背を追い続け、どうにか追いつきたどり着く。ただ黙々と、暑さも感じていないかのように進んだ彼女の言葉を借りれば、
「ここが断罪の間、か……終点はここかい? オランピア」
 額に玉と光る汗を拭って、メビウスは振り向く痩身へと語りかける。随分と歩いたが、オランピアに疲れた様子は微塵もない。代わってメビウスが今日連れる仲間達は、慣れぬ熱気と湿度でヘトヘトのようだった。あのエミットですら、普段の涼し気な無表情を僅かに歪めている。
「メビウス、そして深王代理騎士エミット……並びに両ギルドの冒険者達よ」
 あいも変わらず平坦なオランピアの声は、その響きだけが鋭く冷たい。まとわりつくような周囲の空気を貫き、メビウスの耳に尖って刺さる。メビウスをはじめとする一同は皆、先導する深王の使いへと視線を集めた。その中から一人、あいも変わらず陽気な声。
「あいよ、オランピアちゃん! ここかい、真実とやらが眠ってるのは」
「そうだ。貴様もその目で確かめろ。……我等が深都の、深王の敵を。その驚異を」
 コッペペの軽口を軽く受け流し、オランピアは胸元から一本の鍵を取り出した。煌く星屑をあしらった金色の鍵が、周囲の無骨な岩盤とは不釣合な扉へと向けられる。華美な綺羅星をあしらった鍵が不思議な音と共に解けて、真実への道がメビウスの前に開かれた。
 オランピアが促すまま、そのじとりと見詰める視線に先んじてメビウスは部屋に足を踏み入れる。
「おや、珍しい……何年ぶりかな? 人間と、ヒトと会うのは」
 幼くあどけない、それなのに老成して狡猾さが入り混じる声がした。
 部屋の中央に白い影が一つ。


 酷く小さな矮躯だが、メビウスは一目で見て言葉を失った。それは、ヒトならざるモノ。全ての色を拒絶するような白い肌は、この熱気の中でもしっとりと濡れて光を帯びている。かろうじて四肢をなす五体は、そのどこにも人間との、自分との共通点を見出すことはできない。
「これが百年の昔、深王が封じたフカビトの王……その真祖だ」
 オランピアの声だけが静かに、しかし明らかな敵意を込めて小さな部屋に響いた。
 フカビト……以前より深王が語ってきた、海都に秘さねばならぬ真の敵の名。
「深王の下僕よ、哀れな操り人形よ。僕はまだ王ではない。王子、あるいは姫というとこさ」
 ――そこの娘と同じようにね。そう冷たく低く、異形の幼子がクククと笑う。その声が向けられる先を振り返って、メビウスは戦慄き総身を震わせるジェラヴリグを、それを庇うリシュリーを見詰めた。
 しまったと内心舌打ちを零し、それを実際に隣のエミットに聞く。その瞬間にはもう、子供達は互いの身に身を寄せて灼熱の洞窟に凍えていた。寒々しいまでの怖気が、メビウスの大事な仲間を、まだ小さく幼い少女の身を凍り付かせていた。
「……あ、ああ……あっ、あの身体。あれは――」
「大丈夫ですわ、ジェラ。そこのあなた! ジェラが怖がってますわ、シッシですの!」
 ジェラヴリグの顔は蒼白で、真逆にリシュリーは頬を真っ赤に膨らませている。
 その時、メビウスは背中で暗く澱んだ声を聞いた。
「混じ者が二人……面白いね。久々の食事として、申し分ない」
 狭い小部屋の熱気も忘れる殺気が、瞬く間に場を支配した。不意にメビウスを、並ぶエミットごと二対の影が覆って飲み込む。敵意がメビウスの危機感を擦過し、早鐘のように鼓動が高鳴る。
「メビウスさまっ、おばねーさまっ! 危ないですわっ!」
 リシュリーの声を吸込み、雌雄一対の敵意が背後を襲う。かろうじて身を翻したメビウスの、今まさに数瞬前に立っていた場所に刃が降ってきた。一歩遅ければ、それは彼女の身を引き裂いていたであろう。暑さとは別種の空気がメビウスに冷たい汗を吹き出させる。
 異形の矮躯から突如として生えてきた――そうとしか認識できない敵もまた、ヒトの輪郭をなした異形の存在だった。その深い海底の蒼を湛えた瞳が、ギラリとメビウス達をねめつけてくる。
「っと、こりゃまじぃ! ……悪ぃが野郎だけはお引き取り、願う、ぜっ!」
 早撃ちの銃声が響いて、咄嗟にメビウスの身体を急反転させる。冒険者として身に染み付いた反応が、培った経験が瞬時の判断に身を躍らせていた。コッペペの先制する弾丸を受けた敵に、その片方、男女で言えば男の……オスの方と思しき化物へと肘を突き出す。
 そう、己の拳を手で握って繰り出す、強烈な肘鉄を吸込み絶叫をあげるのは……化物だった。
 メビウスは胸中に込み上げる恐怖と恐惶に言葉を失いながらも、不思議と化物の二文字を噛み締め全身を翻す。返す刀で繰り出された渾身の蹴りが、エミットの穂先に縫い止められたもう片方を、メスの異形を断ち割る。突然現れたフカビトなる化物は、かろうじて咄嗟の反撃で退けられた。
「おや、ニエにならないのかい? 面白い、面白いなあ……こんな気持は百年ぶりだよ」
 気付けば肩を上下させて呼吸を貪っていたメビウスは、血の気の失せた顔を強ばらせるエミットと共に身構える。背後では子供達を下がらせ、短銃に火薬を詰める音が酷く冷静に聞こえてきた。
「くっ、オランピア! これが、こいつが真実か! これが、フカビト……ぼく達の敵かっ!?」
「そうだ」
「……問答無用って訳かな。ヤだな、そういうのは、さ……でもっ!」
 一部始終をただ見守っていたオランピアの声は、酷く落ち着いていた。その姿を見て確認する余裕がしかし、今のメビウスにはない。傍らのエミットにも恐らく。それ程までに眼前の殺気は強大で、一瞬でも気を抜けばという気配が感じられる。メビウスは今、冒険者として過去最大の危機を迎え、その恐ろしさの序列を塗り替えさせられていた。数多の危険を超えてきた、それが今では児戯にすら感じる。
「おのれ化物、これがフカビト……深王はこれと、この者達と百年。くっ、正しく恐るべき魔!」
「……待って、エミット。もう襲ってくる気配を感じない。それよりも」
 エミットは再度「化物め」という言葉を忌々しく吐き、メビウスの視線に気づいてハッと表情を失った。二人が並んで振り返れば、リシュリーにしがみつくジェラヴリグは言葉にならない声を小さく漏らしながら、震えてその場にへたりこんでいた。気遣うコッペペの言葉も、今は耳に届いていない。
 そんなジェラヴリグの肩を抱いて膝を突きながら、リシュリーが珍しく声を丸く尖らせた。
「そこのあなた、突然無礼ではないですか! ジェラを怖がらせるのは、わたくしが許しませんわ!」
「おやおや、混じ者の片割れが。王子にして姫なる娘よ、何をそんなに怒っているんだい?」
「マジモノ? と、兎に角、突然失礼ですの! おばねーさまもメビウスさまも、困ってます」
「それは失礼、悪かったね。でもね、お嬢さん。……その娘は、半分僕、僕達なのだけど――」
「む、難しい話は解らないです! ジェラは全部、私の友人ですの!」
 またしてもリシュリーが、そのたおやかな金髪の上にもくもくと煙をあげはじめた。混乱して目をシロクロさせる彼女に代わって、徐々に落ち着きを取り戻したジェラヴリグが立ち上がる。
 メビウスは気付けば、そんな彼女達に駆け寄り、改めて真祖に……フカビトに対峙していた。
「メビウスよ、そして深王代理騎士エミット。しかと目に焼き付けよ……これなるがフカビト、我等が敵にして恐るべき魔。世界樹の助力を得て我等深都が戦う驚異。海都に秘するべき邪な存在」
 泰然として揺るがぬ真祖を前に、オランピアはただ目を細めて言葉を紡ぐ。その声は普段と同じく抑揚に欠いて氷のようだったが、メビウスは容易にその殺意を、込められた敵意を拾うことができた。
 珍しく感情も露に、それも裂帛の意志を迸らせるオランピア。
「奴等は人の心に巣食う……その存在を認識する者の心を食う。故に我等は機兵として生まれた」
「オランピア? じゃあ、世界樹に施された百年の封は、その禁は」
「そう、全ては心ある海都の民を守る為。知れば、それだけで魂を喰らわれる」
 メビウスは絶句した。
 同時に、今までの謎が氷解して真実がその全貌を現す。フカビトとは、その存在を認識する人の心を、魂を糧に……贄にして力を増す邪悪。今目の前で、メビウスと視線を合わせて淫らな笑みを浮かべる、真祖に代表されるフカビトこそ、世界の敵。
「これが、深王を王たらしめる敵。世界の、敵。……ふっ、私も今、主君を得たということかっ!」
 メビウスは隣で闘気が膨れて弾けるのを感じた。次の瞬間には槍を振り上げ、エミットは真祖へと踊りかかる。だが、その時メビウスの視界に信じられない光景が飛び込んできた。
 歴戦の古強者、エミット程の剛の者が……たやすく矮躯に首をくびられ吊り上げられる。エミットの本気を察した瞬間の出来事に、メビウスが、リボンの魔女ともあろう者が身動きひとつ許されなかった。
 思惟が削られ漂白される中、言葉を選んでメビウスが口を開いた、その瞬間だった。
「……その人を、殺さないで。リシュが、友達が悲しむもの」
 リシュリーに支えられながらも、しっかりと己の足で一歩踏み出すと……毅然とした声音でジェラヴリグが真祖へ語りかけた。その言語には、幼い少女とは思えぬ悲愴な決意と、それを飲み込む諦観と……何より、真実を受け入れて尚決然とした、メビウスと同じ冒険者の挟持が感じられた。

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