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 熱気が渦巻く迷宮内は今、怒号と喧騒に支配されていた。灼熱の洞窟で綴られた世界樹の迷宮第三層、光輝ノ石窟を大勢の冒険者が逃げ惑う。
 誰もが戦意を失い走る中、その人波に逆らいリュクスは声を張り上げた。
「皆さん、地軸へ! 焦らないで、怪我人から先に……」
 たちまち小さなリュクスの矮躯はもみくちゃにされ、大人達の中に飲み込まれた。
 それでも精一杯の声で呼びかけながら、かいくぐるように激流の如き波に逆らう。
「この潰走の先にいるっ。シンデン殿が子供達を連れて出て、もう随分経つ……急がなければ!」
 あどけなさの残る顔を焦りに歪めて、ひとりごちてリュクスは転がるように走る。
 その視界が、不意に開けた。
 突如として逃げ走る人々の影が消え、代わって巨大な節足動物の群がにじり寄ってきた。触手をざわめかせ、周囲に光る鉱石の照り返しに甲殻を輝かせる、それは巨大な蟻。まるで群体が一つの生き物であるかのように、一糸乱れぬ統率で蟻達はテリトリーを広げていた。
 その急先鋒、冒険者達を追い散らしていた兵隊蟻がリュクスに向いた。
「この奥にリシュリーちゃんやジェラヴリグちゃん達が……シンデン殿、今参りますっ」
 リュクスは腰の剣を抜き放つや、普段から習った通りに儀礼的な試合の手順を踏んで、剣を捧げてから身構える。その実戦では無駄な動作をこなす間にも、蟻達は関節を鳴らしながらリュクスへと踊りかかっていた。
 セオリー通り盾でいなしつつ、突出してきた一匹を斬り伏せるリュクス。竜鱗より削り出した伝説の宝剣は、まるで紙を透過するようにスルリと甲殻を切り裂いた。返す刀で二匹目の上段を割り、リュクスは開いたスペースへと小さな身体を押し込み踏ん張る。
 母親直伝の剣術は未だ未熟で、しかし騎士の礼節だけは完璧だった。
「さあこい、モンスター! このオンディーヌ伯リュクスがお相手するっ」
 名乗りをあげたそばから息があがる。まだ二、三合斬り結んだだけなのに、既に全身が冷たい汗に濡れていた。初めて今、リュクスは本当の戦場に立っていた……海都での人助けや仲介、交渉といったクエストではない。危険なモンスターを駆除、討伐するという大冒険の桧舞台だ。
 緊張に上ずる声を飲み込めば、乾いた喉がゴクリと鳴った。
 そんなリュクスを敵と認めて、蟻達が大挙して面での攻撃に身を躍らせる。
「――っ!」
「リュクスさんっ、わたしにつかまって下さい。陽炎……忍っ!」
 不意に頭上で声がして、影が静かに目の前に降り立った。狐の面を被ったシノビの少女が、自らの姿見を術にて浮かび上がらせる。同時に、リュクスの手を握って一歩下がった。
 揺らぐ空気で作られた虚像はたちまち、蟻達によってリュクスの代わりに圧し潰された。
「お怪我はありませんか、リュクスさん」
「あ……つくねさん。や、僕は平気です。……いつから?」
「わっ、わたしはいつでもお側にいますっ。いつも、いつでも……いつまでも」
 シノビの少女つくねは短刀を逆手に抜くや、リュクスの背を守るように後に立つ。
 気付けばリュクス達の周囲に冒険者の姿はなく、四方はどこをみても黄色と朱色の蟻ばかり。
「囲まれたっ!?」
「リュクスさん、一旦引きましょう。お義母様の後続を待って、合流した方が」
「くっ、一人じゃ進むこともできないのか……僕の判断は間違っていたのか?」
 背と背を合わせた少年少女が、ぐるり前方百八十度を囲む蟻達へ対峙する。既に引き返す道もなく、進む道を切り開くことも困難だった。


 こんな時に限って、真竜の剣は責任と重圧を具現化したかのように重い。
「リュクスさん、焦っては駄目です」
「でもっ! ここで立てない者に、どうして国を統べる責が負えるだろうか。僕は――」
 独断専行という名の過ちを犯したのだろうか? 誰よりも疾く駆けつけたリュクスは今、誰よりも危ない状況へと追い込まれている。それも、誰よりも大事な人と共に。
 ジリジリと狭まる輪の中で、囲む蟻達の殺気に肌を焼かれながらリュクスは声を聞いた。
「リュクスさんはオンディーヌ伯、帰りを待つ領民と領地があるんです。だからっ」
「そう、だから慎重を母上は言って聞かせた。それでも僕は――」
「責任ある立場とは、一時の感情で動いてはいけないんです。でっ、でも、それでもわたしは」
 不意に背中の気配が消えた。
 リュクスがそのことに気付いた瞬間、つくねは居並ぶ蟻の群へと身を翻していた。今度は術で作り出した陽炎ではない、正真正銘生身のつくねだ。その細く小さな姿が宙で二つに割れ、四つに増えて敵意に吸い込まれてゆく。
 数の不利を補うべく生み出された分身が舞い、短刀の刃が煌めいた。
「つくねさんっ! そう、僕だって……だから僕はっ!」
 リュクスは盾を捨てると両手で剣を構えて、身をバネにして地を蹴った。その腕に分不相応な伝説の剣が、使い手をあざ笑うかのように振るわれる。リュクスは剣に振り回されるまま、それでもいいからとつくねの背中を追った。
 全力で疾走するリュクスが、華奢なつくねの身へと手を述べたその瞬間。
 全ての分身が強靭な顎に引き千切られた、まさにその瞬間。
 一陣の風が吹き荒れた。
「よう、やってるな坊ちゃん。お行儀いい剣も結構だけど、よっ!」
 剣閃が走った。
 右翼から押し寄せていた蟻の一群が、光の筋に裂かれて引き下がる。そうして出来たスペースに降り立った男は、肩でトントンと遊ばせた剣から二撃目を放つ。薙ぎ払う一撃が風を生んで、吹き荒れる嵐となり回廊を突き抜けてゆく。
 リュクス達を助けてくれたのはイーグルだけではなかった。
「数が多いな。下がれ少年っ! この場はわたし達が引き受けた」
 僅かに手の届かぬつくねを、重厚な鎧を纏った影が救い出してくれる。長柄の戦斧を手にしたラプターは、つくねをリュクスの方へと放ると同時に、頭に巻いた包帯に手をかけた。
「さて、少し運動をさせて貰う」
 乾いた血で朱色に染まった包帯が、熱気をはらんで吹き荒れる気流に流れてゆく。全身のあちこちから白い包帯を解きながら、ラプターは頭上高く武器を構えて気勢を叫んだ。その声に追従するイーグルのフォローは素早く、たちまち二人は勢いを盛り返して蟻達を奥へ押し込み進む。
 ぼんやりと立ち尽くすリュクスは、ただ腕の中でやはり茫然とするつくねと目を合わせた。
「俺が言える身じゃないけどね、リュクス君。君自身の決断を、他者に問うてはいけないよ」
 ――まして、大事な人になど。
 気付けば二人の背後には、一人のプリンスが立っていた。マントの代わりに棚引くコートは、あちこち擦り切れてるが潮の匂いがかすかにする。
 クフィールの登場でようやく、リュクスはソラノカケラからの援軍を察することができた。
「リュクス君、彼女は君の影であり、大事な人だろう? なら、彼女がどう答えるか解る筈さ」
「あ……そうか、僕はなんて愚かな……つくねさん」
 クフィールの声は穏やかで、しかし乱戦の轟音をついて静かにリュクスの耳朶を打つ。
 つくねが諭してくれた、オンディーヌ伯リュクスとしてのあるべき姿。本来取るべき立場。それはつくねの本心ではないのだ。同時にしかし、彼女は問われればそうとしか答えられない。そのことをクフィールは優しくリュクスに語りかけてくれる。
 王子として国をこれから統べる者へ。王子だった、今は国も民もなき者からのメッセージ。
 その真意に気付いたリュクスは、改めてつくねの手を取るとさらに手を重ねる。側に突き立てた真龍の剣に、向い合って立つ二人の姿が映り込んだ。
「僕は……オンディーヌ伯である前に、冒険者のリュクスだ。そうでなければ、いけないと思った」
「はい、リュクスさん」
「僕が国もなく民もない、しかしそれらを背負うべくあがくただの冒険者でも――」
 一度言葉を切ったリュクスは、隣で大きく頷くクフィールの瞳に背を押されて、
「それでもつくねさん、僕についてきてくれますか? ううん、ついてきて欲しい。一緒に」
 少女は笑顔で首を立てに振ると、そのまなじりに浮かんだ光を狐の面で多い隠した。
「……よしっ! クフィールさん、お力添えを……仲間達を救出して、女王蟻を叩きます!」
「うん、急ごう。時は一刻を争う……君の決断を今、形にする時だ。その為に俺達もまた、力を」
 リュクスは散らばる蟻達の残骸を乗り越え、階段を確保して手をあげるファランクスとウォリアーの姉弟に向けて歩き出した。その足取りには今、ようやく自信が漲りはじめていた。

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