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 長い長い夜が明けた。
 徹夜明けで重いまぶたを擦りながら、レヴは仲間達から整理した書類を集めた。一晩かかりきりの仕事だったが、皆が皆一生懸命取り組んでくれた結果だ。ここにも夜を徹しての戦いがあったのだ。
「終わったあ! ああもう駄目だ、眠い……」
「これでやっと寝られるね〜、もう書類とハンコは見たくもないよ〜」
 シェルパとルスラーンが同時に、事務用品が散らばる机に突っ伏した。
 メビウス達が海の底で決戦に挑んでいたこの夜、レヴ達もまた別件の依頼でこの元老院に来ていた。挑むは恐るべき真祖でもないし、フカビトの勇者達でもない。海都百年の歴史で溜まった、未処理の書類の束だ。元老院のお偉いさん方が、未来へ向けて先送りにしてきた多数の案件は、夜通しの作業であらかた決済を終えていた。
 レヴは書類をまとめると、窓から庭を眺める老婆へと声をかける。
 一晩中ずっと、彼女は星空を眺めていた。今は庭の向こうに広がる、暁に染まる海都の街並みに目を細めている。
「フローディア様、全て片付きました」
「おや、仕事が早いねえ。これであたしも一安心だよ」
 元老院を束ねる長、フローディアはレヴを振り向き頬を崩す。
 レヴ達ソラノカケラに、仕事のできる人間を四、五人程貸して欲しいと依頼が舞い込んだのは先日の夕刻だ。メビウス達が決戦へと旅立つのを見送ったレヴ達ファーマーの一団は、急ぐ仕事もなかったので快諾したのだが。まさか、滞った海都の行政処理を一気に全部やらされるとは思いもしなかった。
 だが、レヴ達はやってのけた。
「今日からアーモロードの新しい歴史がはじまるんだ。新しい酒は新しい革袋に、っていうさね」
「では、民政アーモロード共和国に持ち越してはいけない案件ばかりだったと」
「そうさ。これらはみんな、元老院が面倒を棚上げしてきたものばかりだ」
 あたしもそれを見過ごしてきちまったんだけどね――そう言って自嘲気味にフローディアは笑う。
 例えば街の通りを貫く橋の補強工事や、上下水道の保守点検……そういった市民に密着した案件の中で見過ごされていたものをレヴ達は処理した。勿論決済に際してはフローディアが事前に目を通したものばかりだったので、後は書類上の処理をするだけだった。
 が、これが尋常ではない量だったので、レヴの仲間達はもうノックアウトだ。シェルパは机によだれを垂らして安らかな眠りに落ちていたし、舟をこぐルスラーンには今、チェブラシカが優しく上着をかけてやっている。
「この街は再び深都と一つになって、新しい国がはじまるのさ」
「フローディア様は、海都院の議員への推薦を断ったとか」
「……もう、この老骨にやることはないねえ。潔く身を退くさ」
 喉を鳴らしてフローディアは笑い、気遣うレヴから書類を受け取る。
 確認を待つレヴの前で彼女は、決算のハンコが押された書類を一枚一枚丁寧に精査しはじめた。
「正直、疲れちまったのさ。もうグートルーネ様もサイフリート様もいないしねえ。ああ、ありがとよ」
 チェウブラシカが淹れたての珈琲をそっとフローディアの執務机に置く。同じ物をマグカップで受け取り、レヴもその香気を吸い込んだ。徹夜明けの重い身体に、香ばしい珈琲の匂いが染み渡ってゆく。
 一通り書類に目を通したフローディアは、カップに手を付け一口飲むと、長い溜息を零した。
「いい仕事だ、あたしゃ仕事のできる人間は好きだよ」
「ありがとうございます。僕達もお力になれてなりよりです」
「……あの小僧っ子達は、メビウス達はうまくやったかねえ」
「ええ」
 即答のレヴにフローディアは目を丸くする。
「メビウスさんなら大丈夫、万事上手くやって……もうすぐ帰ってきます。この海都に」
「いやに自信たっぷりじゃないか」
「確信があるわけではありません。ただ、そう信じているだけですよ」
 レヴの言葉にフローディアは満足気に頷き、カップを置くと机の下から小振りなトランクケースを取り出した。
「さて、あたしゃもう一仕事だねえ。今日まで忙しくて、身辺整理もままならなかったから」
「お手伝いしましょう」
 この夜ずっと、片付ける時間はあった。だが、彼女は感傷に浸って外を眺めて過ごしていた。そのことには触れずに、レヴはフローディアの私物を片付ける作業を手伝い出した。といっても、執務机に彼女の物は少なく、数冊の本と筆記用具を少し入れてトランクケースは閉じられる。
「さて、これで本当に片付いちまったねえ」
「これからどうなさるおつもりですか?」
「ん? そうさねえ……少しゆっくりするさ。アーモロードが育ってゆくのを見守りながらねえ」
 チェブラシカから帽子を受け取ると、フローディアは長年自分の居場所としてきた執務室のドアへと脚を向ける。
「お見送りしましょう」
「悪いねえ」
 廊下に出ると、早朝だというのに多くの職員達が詰めかけていた。
「フローディア様! どうかこの後も海都に、アーモロードにお力添えを」
「フローディア様の元で長年学ばせていただきました。どうか今後も」
「いかないでください、まだまだこの街はフローディア様を必要としています」
 誰もが皆、頭を下げてフローディアの手腕を惜しんだ。
 元老院はなにも、古き王家に連なる者達の末裔ばかりが運営しているのではない。市民から才を認められた者、意欲のある者を広く公募して採用し、一丸となってこの百年運営されてきたのだ。
 その先頭に立ち続けたフローディアはしかし、優しく一人一人の手を取り、感謝の言葉を口にする。
「なに言ってんだい、これからはお前達の時代なんだよ? 年寄りの出る幕じゃないさね」
 しかし、と声を高める者達を手で制して、言い聞かせるようにフローディアは続ける。
「民政アーモロード共和国……いいじゃないか。これからこの地は民の国だ。いいね?」
 誰もが涙を流して目元をこする。
 少し離れた場所では、元老院の重鎮たる老人達が頭を下げていた。たしかレヴの記憶では彼等は、引き続き議会の海都院議員として政治の舞台でこの国を支えてゆくそうだ。そんな彼等にもフローディアは声をかける。
「いいかい、お前達! しっかりやるんだよ。若者は年寄りを支え、年寄りは若者を活かすんだ」
 なにかと冒険者達の悩みの種だった元老院の老人達も、この時ばかりはかしこまった表情で「はっ!」と控えた。
 そうしてレヴを引き連れ、フローディアは元老院の建物を後にするべく歩き出す。
「意外に人望があるねえ、あたしも。捨てたもんじゃないよ、これは」
 愉快そうに笑っているが、どこか寂しげにレヴには見える。
「で? ソラノカケラは今後どうするんだい? なにかあてはあるのかい」
「そうですね。メビウスさんと相談してみないことにはなんとも」
 フローディアは足を止めると、じっとレヴの瞳を覗きこんできた。
「この国はこれから民の国になるんだ。いくらでも優秀な人材は欲しいねえ」
「はあ。ではメビウスさんを?」
「それも勿論だよ。そして農民あがりだからって、もう肩身の狭い思いなんざさせるもんかい」
 フローディアは真面目な表情でそっとレヴの手を取る。
「あたしゃずっと見てたよ。ソラノカケラも、お前さんも。事務処理能力、経済感覚、どれもピカイチだよ」
「お褒めに預かり光栄です」
「お前さんのような人材が、これからのアーモロードに必要なのさ。どうだい? あたしが一筆――」
 恐らくレヴの顔に答が出ていたのだろう。
 フローディアは「いや、つまらないことを言ったね」と、言葉を切って歩き出す。その背を黙って見詰めながら、レヴは最後まで共をしようと開けた玄関ホールを横切る。目の前を歩く老婆の背中は曲がって、今はとても小さく見えた。この海都のために身を削ってきたのは、齢百年を越えるフローディアその人だった。
「フローディア様。お見送りに馳せ参じました」
「おや、これはまた嬉しい顔を見せてくれるね。……今まで苦労をかけたねえ、クジュラ」
 金髪の将が、フローディアを待ち受けていた。彼はそっと外に通じる門を開く。
 金色に輝く朝の光が、鳥の鳴き声を織り交ぜた爽やかな空気と共に雪崩れ込んできた。
「クジュラ、これからもアーモロードに尽くしておくれ。姫様が愛したこの都、守って欲しい」
「御意!」
 深々と頭を下げるクジュラをねぎらい、最後にフローディアはレヴを振り返った。
「お前達はどうするんだい? どうするんだろうねえ……不思議な気持ちだよ」
「フローディア様」
「このアーモロードに骨を埋める気持ちで、あたしの後継者になって欲しい。けど――」
 外の眩しさに手をかざして、ニコリとフローディアは微笑んだ。
「あの小僧っ子を、メビウス達を誰が留めておける? 風は一箇所に留めれば、それはただの空気さね」
「風はただ吹き抜けてゆきましょう。このアーモロードを洗って」
 レヴの言葉に満足したようにフローディアは頷く。そう、メビウス達は流離いの冒険者で、今はレヴだってその一員だ。それは世界を取り巻き西へ東へとわたってゆく、一陣の風にも等しい存在。この地に世界樹があったがために、一時その場でつむじを巻いたに過ぎないのだ。
 だが、それを承知して微笑むと、フローディアは朝日の中へと溶け消え去っていった。
 その背中を見送り、レヴも脱帽して深々と頭をさげた。

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