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 青い空、遥か高く。どこまでも白い雲を連れて広がる。
 青い海、遥か遠く。どこまでも白い波濤を連ねて続く。
 水平線を目指す船は今、風にはらんだ帆を広げて真っ直ぐに進んでゆく。快速が自慢のクリッパーは、ソラノカケラが元老院から与えられた新造船だ。その船首、舳先に飾られた女神像(わざわざリボンの魔女をイメージして作られたとかいう噂がある)の上にちょこんと座って、ジェラヴリグは海を眺めていた。潮風は心地よく頬を撫で、金髪をさらって吹き抜けてゆく。
「いい天気だねえ。ほら見なよ、お嬢ちゃん。魚も上機嫌で飛んでらあ」
 コッペペの声に首を巡らせれば、トビウオの群れが大挙して並走していた。盛んに波間を飛んでは、小さな飛沫をあげてジェラヴリグ達を追い越してゆく。
 海はいい。自分のルーツに近いからだろうか? とても気持ちが落ち着いて、苛立ち焦る気分が鎮まってゆく。
「やっと笑ったな、お嬢ちゃん。やっぱり子供にゃ笑顔が一番さ。メビウスはそれがわかってるんだなあ」
「笑った? わたしが?」
 先程からリュートを奏でていたコッペペは、にんまりと笑って頷く。
 こんなにも気持ちが安らいだのは、いつ以来だろうか。こういう気持ちの時、いつも隣にいた友人が今はいない。それがずっと、小さなトゲになってジェラヴリグの心を大きく切り裂いていた。無数の傷で出血した胸の内はもう、張り裂けそうだった。メビウスが海に出ようといったのは、そんな彼女が俯きながらも黙々と仕事をこなしていた今朝方だった。
「こうしている間も、リシュは……」
「そうさ、だからオイラ達は全力を尽くす。それに、リシュリーちゃんのためにも笑ってなきゃな」
 不思議そうに小首を傾げるジェラヴリグに、コッペペはポロンと弦を爪弾き言葉を続ける。
「あの娘の分まで笑顔で、な。そうすりゃきっと、同じ笑顔が戻ってくる。必ずだ」
「コッペペさん」
「オイラ達大人が約束するさ。それにオイラは男だからな、美人の曇り顔が一番見てらんねえのヨ」
 そういってニシシと笑う顔は、どこか悪童のように幼く見える。だが、無責任な頼もしさが嬉しくてジェラヴリグも柔らかくはにかんだ。この笑顔をずっと咲かせて、リシュリーを迎えに行こうと改めて誓う。
「はは、流石だなあ。コッペペの旦那、伊達にギルドの頭張ってないって訳だ」
「だろ? 見直しただろ、ラプターちゃんよお」
 船倉から上がってきた甲冑の騎士へと、頬を緩めてコッペペは振り返る。この吟遊詩人が本業だとうそぶく怪しげな男を、ジェラヴリグはずっと立派な大人の人だと思っていた。深王を相手に、誰も言えなかったことを言ってのけた人。女性のために全てを賭して、命さえ投げ出せる人。大人である以前に、男であろうとする人。
 でも、時々不安に思って自分の評価を疑いたくなることもある。
「どうだいラプターちゃん。見直しついでに今夜一杯。オイラのおごりでしっぽり飲んで、それから――」
「物好きだなあ、旦那は。もっと他の娘を誘えばいいのに」
「いやいや、美しき猛禽の騎士ラプター=マーティン……貴女こそ寂しい夜に奏でる歌にふさわしいぜ」
「考えておくよ、一杯つきあうことだけ。美味い酒は嫌いじゃないからな」
 この節操のなさがなければと思うが、ジェラヴリグの歳ではわからないこともある。そういうことがわかるのがジェラヴリグだった。
「旦那、姉貴はよしたほうがいい。小さい頃から強烈に寝相が悪いんだ。蹴り落とされるのがオチさ」
 見張りに立っていたイーグルも、するりとマストから降りてくる。その一言に「こらっ、イーグル!」と声をあげるラプターも、眉根を吊り上げつつも穏やかな笑顔だ。舵輪を手に、一部始終を見ていたメビウスも上機嫌で笑っている。
 こんな時やっぱり、隣にリシュリーがいてくれれば……そう思う気持ちを胸に秘めて、その時間を取り戻すためにジェラヴリグは気を引き締める。仲間達が気遣い支えてくれる、その気持ちにも応えたい。
 でも、今は緊張を解いてこの安らいだ憩いの時間を楽しみたい。そう思っていた時、異変は起こった。
「変な風が出てきた、雲行きが怪しいみたい。みんな! 船室に入った方がよさそうだよ」
 メビウスがあげた声に立ち上がったジェラヴリグは、突如叩きつけるような風に髪を抑える。さっきまで穏やかに凪いでいた海原は今、波が高く押し寄せて船を揺らしている。空には暗雲が立ち込め、各所に稲光を瞬かせていた。
 たちまち頭上を取り巻いた雷雲の中に、ジェラヴリグはなにかの気配を感じて緊張感を漲らせる。
「……あの中、なにかいる。なんだろう、敵意はない。のに、この威圧感。これは――」
 たちまち嵐の中に放り込まれて、船はうねる大波に上下した。あふれた波濤は甲板を洗い、ともすればジェラヴリグ達を連れ去りそうになる。抱きかかえてくれたコッペペの腕の中で、ジェラヴリグが指さした空が二つに割れた。
 そして波も風も収まり、大荒れな大海から船の周囲だけが切り取られた。
 舞い降りるは純白、翼を持ちし大いなる万物の頂点。


『哀しき定命の者達よ、永劫の時を世界樹と共に生きる子等よ』
 誰もがあっけに取られて見上げた空に、巨大な竜が浮かんでいた。その白亜の鱗を輝かせる巨躯は、静かに青い空を纏って降りてくる。ジェラヴリグは、自分の身が見えない力に縛り上げられて動かないことに驚いた。
『穢れた混者と蔑まされし子よ、汝の血は尊く、汝の魂は気高い。その生命は平和の象徴、種族の絆』
「この声……直接頭に響いてくる。あなたですか?」
 目の前の竜は、船の何倍もある身体を静止させると頷いた。
 気付けば周囲に駆け寄ってきたマーティン姉弟やメビウスが、ジェラヴリグを庇うように立ち塞がる。
『されど汝は、汝等は罪を犯した。過去に世界樹が封印せし奈落、禍神の地を暴いてしまった』
「過去に世界樹が? ではやはり……無礼を承知でお聞きする! ご尊名を、偉大なる竜の眷属よ!」
 メビウスの声が朗々と響き渡る。この恐るべき万能生物を前にしても、彼女に恐れ慄き怯んだ様子はない。
 その凛として堂々たる態度がよかったのか、白亜の竜は静かに顔を近付けてくる。
『我は眷属の長にして頂点。もっとも古き竜……エルダードラゴン』
「エルダードラゴン……」
『我等翼を持つ者、竜の眷属は不可侵。フカビトにも人にも、禍神にも世界樹にも組みせぬ……だが』
 心に響く声は一度言葉を切ると、ゆっくり再び喋り出す。
『永きに渡り封印されていた地獄の蓋が開かれた。されば英雄の子等よ、汝等に問いたださねばならぬ』
「なんなりと! ぼく達は知らなかったとはいえ、あの迷宮に足を踏み入れてしまった。それは事実」
 巨大な竜は、その顔の両側に煌めく真っ赤な瞳を細めた。馬車の車輪ほどもある巨大な紅玉にも似た輝きが、一層深い光をたたえてジェラヴリグ達を見つめてくる。その中心で震えるジェラヴリグを射抜いてくる。
『汝等、運命に挑む覚悟はあるや? 過去において封じられし災禍、未来へ向けて封じるやいなや』
 流石のメビウスも言い淀んだ。しかたがない、誰が彼女を責められよう。多くの仲間に支えられるアーモロードの英雄といえど、これからの戦いに未来を約束することはできない。彼女が常に確約できるのは、全てに対して全力で尽力することだけ。
 唇を噛むメビウスの気持ちを察して、そっとジェラヴリグはコッペペの腕の中から抜け出た。
 いまなら身体が動く、気持ちが決まる。それが言の葉にのって口から相手へと伝わる。
「メビウスに代わってお答えします、竜の王よ」
『小さき者よ、混者の子よ。汝の言葉をこそ求める』
「わたし達、フカビトと仲良くしたいと思ってます。怨嗟と憎悪ではなく、調和と友愛を持って共に歩みたい」
『尊き心、清き意思。その証こそ汝の生命と誇れ。我もまたそう願う……切に切に願う』
 そっとエルダードラゴンは手を伸べてくる。その気になれば一振りでこの船を木っ端微塵にし、ジェラヴリグ達五人を海の藻屑と化す巨大な手。長い四本の指には、鋭い爪が光っていた。だが、不思議ともうジェラヴリグは怖くはない。
 その差し出された手にそっと触れて、次いで頬を寄せるジェラヴリグ。
「わたしが約束します。わたし達が世界樹を信奉し、世界樹に従う生き方を選ばないように――」
 そう、人間は既に世界樹の手を離れた。どこか世界樹も、そのことを望んでいるかのようにすら感じるから。すでに神話の時代は終わり、人は人の歴史を歩み始めたから。その変革の時代をまた、フカビトとも共有したいと思うから。
「フカビトのみんなにも選んで欲しい。信仰を捨て風習を捨てろだなんて言わない、大事にして欲しいけど」
『祈りと願いは常に等しくヒトを支える。究極の存在である我等でさえ祈る……世界の平穏と無事を』
「ええ、だから。フカビト達もまた、禍神から巣立つ時を迎えて欲しい。同時に、縛鎖を解きたいのです」
 ジェラヴリグが見上げる瞳は澄んで美しい。エルダードラゴンはどこまでも優しい輝きに満ちていた。
「もし、フカビトの神様がフカビトを縛るなら、わたし戦います。例え相手が神様でも」
『その覚悟、確かに我が身に我が胸に。混者の子よ、気高く壮健であれ……我等竜の眷属もまた力になろう!』
 風が吹き荒れてジェラヴリグはエルダードラゴンの手からひっぺがされた。その矮躯は甲板を転げたが、メビウスが抱きとめてくれる。彼女はジェラヴリグを支えながら、飛び立ち天へと消えてゆくエルダードラゴンへ叫んだ。
「ぼく達は世界樹を離れ、独り立ちしたと思う! だから……どうか決着は人の手で! ぼく達の手で!」
 メビウスの声が聞こえたかどうか、それはわからない。だが、飛び去る翼は周囲の嵐を吹き飛ばして、船の上で旋回して消えた。
 最後に、誰の耳にも等しく響く声を残して。
『気高き英雄達よ、未来への遺産を紡ぐ者達よ。汝等に贈ろう、三竜の試練を……強き魂に力を!』
 ジェラヴリグはメビウスと共に、仲間達と共に遠い空を見上げて見送った。
 エルダードラゴンが飛び去った後は、先ほどの嵐が嘘のように静かな海が広がっていた。
「……こりゃ、どえれえことになったな。オイラの紡ぐ叙事詩に大胆なゲストの到着って訳だ」
 コッペペは腰を抜かしたのか、その場にへたりこんだ。イーグルは姉のラプターに抱きついていたのに気付いて、慌てて離れる。だが、弟がへばりついていたのにも気付かず、ラプターは不敵な微笑みで空を見上げていた。
 あらゆる生物の頂点、ドラゴン。すなわち竜。その驚異との遭遇は死を意味し、過去にあらゆる者達が挑んでは散ってきた歴史がある。だが、そのドラゴンの中でも最も古き者……神にも等しい存在がジェラヴリグ達に会いに来た。
 込み上げる震えが恐怖ではなく畏怖と畏敬、そして喜びであるとジェラヴリグは気付き始めていた。

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