ジェネッタの宿は今、客室が並ぶ二回の廊下を賑わせていた。
その渦中の人であるニカノールは、率先して働く。
今日はいそしそと
慌ただしくお引っ越しだ。
手伝ってくれるバノウニに感謝しつつ、新たなルームメイトの部屋へと荷物を運ぶ。なるべく忙しく働いて、引っ越しの理由を問われないようにと身体を動かした。
「ニカさん、こっちのトランクもですか?」
「ああ、うん。持ってきてくれる? それと……急にゴメン、フォス。それと、よろしく」
ニカノールが
居を移すのは、フォリスの部屋だ。
フォリスはニカノールと同じ間取りの部屋を、ノァンと使っていた。広くはないがシャワーとトイレがあり、寝室にはベッドが二つ並んでいる。
怪我も大分良くなったフォリスは、ベッドに身を起こしてニカノールを迎えてくれた。
「俺は、構わない。それに……ノァンに、友達が増えた。礼をいうのはこっちだ」
「傷はどう?」
「もうすぐ冒険に復帰できる。それより、ニカ」
「あ、ああ! 待って待って。バノウニ、ごめーん! それ、重いよね。そこに置いて。あとで
死霊に運ばせるから」
よく働くバノウニには、悪いと思ったが今日の冒険を休んでもらった。
世界樹の探索は、ナフムとフリーデルが仕切ってくれている。二人は何故か、ラチェルタやマキシア、そしてレヴィールといった少年少女達から絶大な信頼を得ている。アニキ分だと憧れられるや、張り切るところは二人共一緒。
一方で、エランテに宿るクァイやメルファは、バカだよバカと苦笑するのだ。
概ね誰からも愛される青年コンビを、ニカノールも信じて疑わない。
「でも、バニキーズって愛称は……ちょっと。ま、いっか。さて」
「……ニカ、あのな。俺は、その……ちょっと、いいか?」
「うん? ああ、なんだい? フォス」
丁度バノウニが、ギルドマスターが管理している書類の束を書物と一緒に持ってきてくれた。とりあえず引越し作業は終了だ。
バノウニには午後は休暇をと思ってるが、思いのほかフォリスは真剣な顔をしている。
呼ばれるままに枕元の椅子に座ると、神妙な顔でバノウニも肩を並べた。
二人を交互に見て、フォリスはゆっくりと言葉を選んだ。
「ニカ、あのお嬢さんは……ワーシャは、お前の
許嫁、婚約者なのだろう?」
「そ、そうなんだけどさ。でもさ、初めて会ったんだよ?」
「コシチェイ家は古い一族だ、珍しくないと思うが」
バノウニが感心したように「へー、
御曹司なんすか」と目を丸くした。
だが、ニカノールは声のトーンが落ちて、ぼそぼそと喋り出す。
「……僕、死んでるんだよ? しかも、予定外の死だ。こういう不測の事態であるからして、前提条件が破綻してるんだ。女の子一人の人生を狂わせてしまうには十分過ぎる……だから、親元には一度解消をと手紙を」
「手紙を?」
「書く。……つもりで、いる。ただ」
「ただ?」
「ワーシャは……凄く、イイ
娘だ」
うんうんとバノウニが
頷き、フォリスもそれを肯定した。
ただ、ニカノールは怖いのだ。
自分への失望は勿論、自分と一緒でワシリーサが不幸になるのに耐えられない。かといって、意地でも幸せにしてみせると思えるほど、単純でもなく、達観もできていなかった。
フムと唸ったフォリスは、不意に死霊の召喚術を練り上げだした。
「……これは、よく仕事で……葬儀場や結婚式場で、依頼を受けて使っていた術だ。その、ちょっとした……
口寄の、応用だが」
「あ、うん……フォス?」
「ワーシャは今、ノァンとあっちの部屋にいるんだな?」
「そう、だけど」
古めかしい術や大規模な儀式はよく知っているが、街の
屍術士が都会でどんな仕事をしてるかニカノールはわからない。フォリスは地方都市で
冠婚葬祭の仕事をしていたという。
やがて、浮かび上がった死霊が実体化し、その口から聴き覚えのある声が響いた。
『ワーシャ、今日からアタシがルームメイトです。ボウケンシャーとしてはアタシが先輩、お姉さんなのです!』
『はい、ノァン様。
至らぬ身ですが、仲良くしてくださいな』
『
勿論なのです!』
どうやらこの術は、離れた場所にいる特定の人間の会話を、死霊を通じて聞き取ることができるらしい。

フォリスが
促すと、そのまま浮かぶ死霊から次々と言葉が飛び出してくる。
『あの、ノァン様……どうして、ニカ様は』
『ニカはマスターとは仲良しなのです! でも、安心してください! アタシもニカと仲良しだし、ワーシャもニカと仲良しなのです!』
『ええ……そうだと、とても嬉しいんですけども』
『アタシ、知ってるです。ニカはですね、グフフ……これは秘密、秘密ですよ? ここだけの話なのです。ニカは、ワーシャのことが好き好き大好きー! なのですっ!』
思わず
頬が熱くて、ニカノールは赤面に
俯いた。
ノァンは無垢で無邪気な少女だが、
概ね気配りや配慮といった概念を知らない。感じたままに喋るし、話す前に身体が動くほうが多い。
そして、気付けば三人の男子は死霊を囲んでワシリーサの言葉を待っていた。
『そう、でしょうか。わたし、少し自信がなくて』
『どしてですか? ニカを見てれば、アタシわかるのです!』
『見てれば……わかる?』
『はいです! ただ……ただ、ですよ? ワーシャ、これは大事な話なのです……』
不意に、ノァンはもったいぶるような声を
潜ませた。
自然とニカノール達も、死霊の口元へ
額を寄せてしまう。
『ワーシャ、覚えててほしいです。男の子はみんな』
『男の子は、みんな!』
『大好きな女の子には、何故か意地悪してしまうのです』
思わずニカノールは「意地悪なんかしないよ!」と立ち上がった。
だが、大好きな女の子という部分は……否定できない。
否定したくないのだと思ったら、また顔が
火照る。そして、大好きと言うにはあまりに、まだまだときめきはささやかなものだ。だから、今ならワシリーサをもっと確かな人生へと返してやれる。
ぼんやりと好意を感じてる今なら、ワシリーサとの別れも傷が浅い
筈だ。
フォリスに促されて、もう一度ニカノールは座った。
『あとですね、ワーシャ。男の子はみんな……夜遊びが好きなのです!』
『まあ……ふふ、それは存じてますわ。ニカ様ほどの器量の方ですもの、
嗜みです。それが殿方の
甲斐性でもありますし。……ノァン様も、ですか?』
『はいなのです! アタシとニカは、
夢見の
夜魔亭で遊ぶと決めてるです。メルファもヨスガもいるし、ナフムもフリーデルも一緒です』
『それなら、安心ですわね』
『お金があるときは、みんなで大騒ぎして、綺麗なお姉さんとキャッキャウフフするのです。お金がないときは……
鍋を食べるです。でも、鍋は凄く美味しいです! ワーシャにも今度、ブイヤベースを
御馳走するのです!』
その後、ノァンはまたブイヤという大型魚の話を膨らませ始めた。
声だけのワシリーサは、にこやかに笑ってその話を聞いている。
自然とのニカノールの脳裏に、あの
微笑みが思い描かれた。どこか儚げで、そんな美貌とは裏腹に……迷いのない、あの瞳。疑いを知らない、全幅の信頼と愛情。それを注がれ受け止めるには、あまりにも今のニカノールは弱過ぎた。
『ふふ、ノァン様と一緒の部屋だと何だか楽しいですわね。とても賑やかです』
『任せるのです! でも、アタシは今朝ナフムとフリーデルに言われてるのです。ニカがそわそわしてたら、アタシは気を利かせる? というのをやるです。小一時間でかけてくると言って、部屋からいなくなるのです!』
『あら、まあ。ご親切にありがとうございます、でも大丈夫ですわ。ニカ様とはどこでも、二人になれますもの』
改めてニカノールは、自分の妻となるべく育てられた少女の心に触れた。
盗み聞きみたいだけど、何だか彼女が本当に性根のいい娘なので、思わず気が引けてしまう。けど、それと同じくらいに気持ちが
惹かれているのだった。
こうして、ニカノールはフォリスとの共同生活を開始したのだった。