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 ヒロは結局、三日間を費やして初歩的な読み書きと日常会話を覚えた。
 挨拶、肯定(YES)否定(NO)、そして幾ばくかの礼儀作法。数字も1から10までが書けて数えられればなんとかなった。むしろ、計算が達者なので事務仕事ではギルド『タービュランス』の即戦力になった。
 近代日本の高等教育に、ヒロは心の底から感謝した。
 だが、体力仕事ばかりはそうもいかなかった。

「うおーい、大丈夫か? もうへばったのかよ」

 すぐ前で仲間のヴァインが振り向く。自分より五つか六つ程年上で、歩き詰めでも全く疲れた様子を見せない。
 職業は、ヒロがギルドで選んだものと同じガンナーとのことだったが。
 だが、基礎的な体力からして全くの別物、別次元に思えた。
 今日は(すで)に攻略された第二迷宮『碧照ノ樹海(ヘキショウノジュカイ)』の再調査である。
 荷物持ちとして同行を志願したヒロだったが、そんな雑務さえ満足にこなせない。そんな自分が歯がゆくて、汗の(したた)る顔をあげる。
 その時、不意に背の荷物が軽くなった。

「無理すんなよ。おい、ネカネ」
「ん、おっけ。ヒロ、こっちの荷物持って」

 寡黙(かもく)なエイダードが、背の背嚢(はいのう)を取り上げる。そして、ネカネがそれを自分の一回り小さなものと取り替えてくれた。
 正直、情けない。
 けど、悲観に暮れる余裕もなかった。

「す、すんません」
「ま、気にするな」

 エイダードは手早く荷物を再分配して、それをネカネと分かち合う。一番大きな荷物を背負っていたエイダードは、それが膨らんでも全く動じず歩き出す。
 気遣うように寄り添うウカノの、その心配そうな表情が一番(こた)えた。
 残念ながら、戦力外の自覚はあった……本物の銃は重かった。
 そればかりか、荷物持ちのような簡単なこともまだまだな自分が恨めしかった。

「大丈夫ですか、ヒロ」
「ああ。ウカノは?」
「わたしは平気です。さ、肩を」
「いや、いい。これくらいはせめて……んっ、お? おお?」

 よろけつつも壁に手をついたヒロに、違和感。
 (こけ)むす壁には(つた)が茂って、緑の回廊がどこまでも続いてゆく。その先へと進む仲間たちから視線を外して、ヒロは首を巡らせた。
 いましたが触れた壁だが、妙だ。
 石造りの隙間に、鬱蒼(うっそう)とした緑の空間が挟み込まれている。
 まるで隠されたかのような、その隙間をヒロは両手でかき分けた。

「こ、これって、ああ、ええと! 待て待て、こっちの言葉では」
「あ……みっ、皆さん! すみません、ヒロがなにかを……ちょっとお願いします!」

 咄嗟(とっさ)に言葉が出なくて、代わりにウカノが小さく叫んでくれた。
 それで仲間たちが、小走りに駆けてくる。
 ここ数日で学んだが、冒険者という人種は迷宮内では用心深く協調性を重んじている。ヒロみたいなズブのド素人(しろうと)でも、なにか言えば真剣に耳を傾けてくれるのだ。
 そして、思い知った……そういう些細(ささい)なことを疎かにする者は、ここでは生きてはいけないのだと。

「おっ、今度はなんだ? またリスじゃねえだろうな」

 いつもの締まらない笑みで、油断なくヴァインが銃を抜く。
 彼は「地図を確認してくれ」とだけ言うと、ヒロを少し下がらせた。そして、(くだん)の壁へと左手を伸べる。もう片方の手は、音もなくリボルバーの撃鉄を引き上げていた。

「へえ、こいつは。地図はどうだ? ネカネちゃん」
「前にジルたちが通った時に、印がつけてある。こっち側からは通れないみたいだけど」
「どれ……ん、こいつぁ、へへっ! ついてるぜ」

 ニヤリと笑って、ヴァインがポン! とヒロの背を叩いた。
 エイダードも黙って腕組みウンウンと(うなず)く。
 どうやら、迷宮内に隠された秘密の通路を偶然見つけたようだ。
 ヒロにとってはまさに、(フィクション)から出た(まこと)というか、事実は小説(ファンタジー)より奇なり、である。物語やゲームにはよく、こういうギミックがあって、それを探すのもダンジョン攻略の楽しさである。
 しかし、それが現実の生活であるこの世界では、生死を分かつ大発見になりかねない。
 テレレッ、テッテッテー♪ ――ゲーム(ドラクエ)でお馴染(なじ)みのファンファーレが脳裏に響く。

「誰かが向こう側から通過したあとがあるな……つまり」
「こっちからも進めるってことですか?」
「おう。それも、道中をめちゃくちゃショートカットしてな」

 それは偶然、僥倖(ぎょうこう)、ラッキーだった。
 だが、ヒロに不思議な感覚を確信させる。
 自分にもできることがある。
 そしてそれは、増やせるかもしれないのだ。
 そう思うと、背負い直した荷物の重さを忘れる。

「進んでみましょう、ヴァインさん」
「まあ待て、俺とエイダードが先だ。で、ネカネちゃーん?」
「だいじょぶ。背中は任せて。ウカノはヒロとツーマンセル、いいね?」

 地図を見れば、ぐるりと迂回(うかい)するような迷路の大半を省略できることがわかる。
 そしてこの先は例の怪物が大暴れしていた場所だ。
 そう、初めてヒロがウカノと共にこちら側に飛ばされてきた場所。
 この迷宮で最強の魔物が鎮座し、古き祟神(ケルヌンノス)まで降臨した部屋だった。
 思わずゴクリとヒロが喉を鳴らす。
 緊張感の中で、ヴァインはエイダードと頷きを交わして、狭い小路へ身を屈めた。
 だが、その時意外なことが起こった。

「やあ、こんにちは」

 突然、向こう側から別の冒険者が現れたのだ。
 そして、ヒロはビクリと思わず後ずさって、そして(いぶか)しげに観察眼を働かせる。
 この迷宮を闊歩する者、それは冒険者とマギニアの衛兵たち、そして魔物だけだ。だが、目の前の人物はそのどれにも該当しないように見えたのだ。
 酷く華奢(きゃしゃ)で、貴族のような身なりの良さ。
 腰には細い突剣(レイピア)を下げているが、装飾品のような印象だ。
 色素の薄い髪に白い肌、そしてやや痩せこけた表情。
 声を聞かなければきっと、女性と思ってしまったかもしれない。
 その彼が、驚き武器を構える面々を見渡し微笑(ほほえ)んだ。

「皆さんは冒険者ですね? はじめまして、僕はヴィラーぜです」
「あ、ども……ヨシヒロです。ヒロって呼んでください」
「ありがとう、ヒロ。皆さんもどうかよろしく」

 とても落ち着いた雰囲気で、それがかえって不気味にも思えた。
 だが、ヒロでもわかるくらいに柔和で温和、敵意の欠片さえなかった。
 それでも慎重に警戒心を尖らせるのが冒険者というものである。
 エイダードは槍を下げたものの、緊張感を緩めない。

「その耳……アルカディア大陸のルナリアか? 同業者ってことで、いいか?」
「ああ、ええ。そのようなものです。母からルナリアの血を半分受け継いでおります」
「こんなところで一人、なにを? パーティからはぐれたなら保護すっけどよ」
「ありがとう、ハイランダーの勇者さん。……少し、探しものをしているのです」

 ヴィラーぜの長髪から覗く耳は、かすかに長く尖っていた。ルナリアというのは確か、この世界でいうエルフのようなものである。アルカディア大陸と呼ばれる異郷の地に住む、四大民族の一つだ。
 つまり、ヴィラーゼはハーフエルフ的なものなのだとヒロは理解した。
 だが、それだけではなさそうな何かが彼の胸中を騒がせる。

「皆さん、迷宮内でどこかに宝石を見ませんでしたか? こう、これくらいの大きさで、真っ赤な……血のような深紅(しんく)の宝石です」

 皆が顔を見合わせた。
 そして、ヒロもまたウカノと共に首を傾げる。
 それは、見たことがある。
 たった今だ。
 そう、ヴィラーゼの瞳が正しくそうだった。だが、彼はどうやら困っている様子で、エイダードやヴァイン、ネカネの言葉に小さく溜息を(こぼ)した。
 高価な宝石、それは大変な落とし物である。
 一般人が危険な迷宮を一人で探し歩いているのだ、相当な価値なのだろう。

「そうですか、残念です。ああ、いえ、ありがとうございました」
「一応、帰ったら仲間たちにも当たってみらぁ。俺は『ストラトスフィア』のヴァイン、こっちの連中は『タービュランス』の面々だ。なんかあったらまあ、頼ってくれ」
「感謝を、ガンナーさん。そうだ、皆さんはもしや奥の階段をお探しではないですか?」
「……あんのかよ、やっぱり。この奥に」
「こちらです。どうぞ」

 ヴィラーゼが、いま来た隠し通路の奥へと進む。
 その先に抜け出て、一行と一緒にヒロは感嘆(かんたん)の声をあげた。
 すぐ目の前に、ジルベルトたちが話していた最後の大広間があった。その扉は激戦を物語るように、半壊して開きっぱなしである。
 エイダードが手と指で合図し、気配を殺したネカネが俊足で中へ。
 すぐに安全を確認する声があって、ヒロたちも恐る恐る進む。
 あの日の恐怖が蘇るような震えと同時に、好奇心が身をもたげる。
 はたして、光さす陽だまりの中にその階段は上へと伸びていた。

「しめた、エイダード! こいつで次の島に行けるかもしれねぇ」
「地図は……ここでほぼほぼ全て埋まったな。やれやれ」


 今日の目的は、この迷宮の最後の地図埋め……そして、次なる迷宮への道筋である。それは恐らく、海を潜って次なる島へと冒険者たちをいざなうだろう。
 だが、ふと視線を感じてヒロは振り返る。
 そこには……日陰の一線で立ち尽くすヴィラーゼが微笑んでいた。
 彼はにこやかに(こうべ)を垂れると、なんとそのまま(かすみ)のように消えてしまったのだった。

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