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 トゥリフィリは、走る。
 チサキに手を引かれて、走る。
 彼女が踏み締める東京タワーの床には、ドス黒い血が点々と足跡を(にじ)ませていた。それは全て、もう片方の手でチサキが抑える脇腹から溢れている。
 モノクロームのゴシックロリータも、酷い汚れで闇に染まっていた。

「チサキ、待って……手当しないと!」
「にゃはは、だいじょーぶっ! 平気だって。それよりほらほら、お姫様。急がないとねぇん?」

 ちらりと見やる窓の外は、(すで)に異界。
 否、トゥリフィリが走っている東京タワーそのものが、異世界と化しているのだ。東京タワーの全高は、300mちょっと……だが、外の景色は空の色が違う。星々の(またた)きは驚くほどに近く、見上げれば虚空の宇宙が広がっていた。
 もう、どれだけ駆け上ったかも思い出せない。
 ただ、握るチサキの手がどんどん冷たくなってゆく。
 それでも彼女は、笑顔で声を弾ませていた。

「ねね、フィー……人間って、ホントに凄いねえ? あたし、感心しちゃうよ」
「悠長なこと言って、もう!」
「正直、ここまでやれるとは思わなかったんだ。竜……ドラゴンに対して、ここまでやるなんてさ」
「……それ、どういう意味?」

 チサキはいつも通り、掴みどころがなくて飄々(ひょうひょう)としている。
 そして、普段通りに妙なことを言いだした。
 時々彼女は、まるで達観したような、どこか諦観(ていかん)の念を受け入れたかのような言葉を話す。そんな時、妙に優しい目をしているのだ。
 だが、ツインテールを揺らして走る彼女の背中は、今日はあまりにも頼りない。

「可能性の話だよん? 人間には、無限の可能性がある……あたし、ちょっと実感なんだよねー」
「……チサキだって、そうだよ。同じ人間じゃ、っとっとっと!」

 不意に止まったチサキが、壊れた自動販売機の影にトゥリフィリを押し込んだ。同時に、彼女は背で庇ってくれるように身を重ねてくる。
 お互いの影を踏む距離で、自然と息を殺して気配を消した。
 眼の前を、巨大なドラゴンが通過してゆく。
 恐らく、決まったルートを巡回するタイプだ。手足が妙に細長く、跳躍力で逃げ回るタワードラグである。この手のドラゴンは、戦闘に時間がかかるのが特徴だ。危険な毒を持ってるが、それよりも頭上の空間を自在に逃げ回るのが厄介だ。トゥリフィリの銃弾とて、高速で高さを使われると少し辛い。

「……行った、ね。チサキ、ついでだから治療を」
「ダメダメ、そんな時間はもったいないよ? ほら、走った走った!」
「ま、また……ちょっと、チサキッ!」
「で、さっきの話だけどさ……人間って、やっぱ凄いじゃん。あたし、見直したよ」

 チサキは既に息が上がって、大きく方を上下させている。
 だが、どこか辛そうに絞り出す声が弾んでいた。
 声音や口調だけが、いつもと変わらない。

「可能性ってさ、結局は無数のIF(イフ)の塊じゃん? でも、絶対にゼロにならない。可能性って、どれだけ削られて擦り切れても、絶望しない限りゼロにならないんだよん?」
「それは……そう、だけど」
「あたしはさ、人間が……人類と世界が、常にそうやって可能性を磨いてきた中で生まれたの。無限に削られ研磨される、試練の数だけ(こぼ)れ落ちた……なんだろ、粉?」

 世界は可能性に満ちている。
 地球の裏側で(ちょう)羽撃(はばた)くだけで、あらゆる人間が影響を受けるとさえ言われているのだ。それだけ未来は不確かで、だからこそ無限の可能性をはらんでいるのだ。
 そしてチサキは、自分をその削りカスのように言う。
 こんな危機的状況で、トゥリフィリはどこか彼女の言葉に聞き入っていた。

「人類は常に、試されてる。ゴッリゴリに試練とか災害、あとまあ、神罰? そういうもろもろに、昔からさらされてきた。やせ細ってもひび割れ欠けても……その中で、可能性はゼロにはならなかった」
「……うん」
「あたしはそこから、零れ落ちたモノ。可能性の残滓というか、影、かな? っと、こっちだ! こっち!」

 不意にチサキは、急ブレーキで、狭い通路へと分け入った。
 どうやらここは、職員用の通用口がそのまま迷宮の一部になっているらしい。
 一般人が立入禁止のドアを、蹴破るようにしてチサキは走った。
 既にもう、ここにも首都のランドマークだった東京タワーの面影(おもかげ)はない。

「常に最善を選択してきた訳じゃないよね、人類ってさ……でも、よかれと思って選び取った。選択すること自体からは逃げなかったし、楽な選択肢に逃げても存続してきた」

 それが可能性の強さなんだと、チサキは言う。
 多様性があって、選択肢が多くて、間違いを選んでも終わらない。終われないとも言えるが、その都度刻まれた歴史から人類は学んできた。
 幾度(いくど)となく、数え切れないほどの分岐点を超えてきたのだ。
 そこまで言って、チサキはトゥリフィリの手を離す。
 それは、小さな鉄の耐火扉の前だった。

「こっから、上にノンストップで上がれるよん? ま、抜け道? みたいな?」
「あ、ありがと……」
「んじゃ、行った行った! ……あ、そうそう、みんなもヨロシクやってるよん? 凄いね、こんな中でも要救助者が助けを待ってた。んで、みんなそれを必死で助けてる」

 意外な言葉に、トゥリフィリは驚いた。
 だが、マグナムに弾を込めながら、チサキは言葉を続ける。

「ナツメをさ……人竜ミヅチをさ、倒すのが目的じゃん? 例えば自然界のようなシステムでは、目的ための手段しか行使されないの。ちょっとした例外もまあ、あるけど……でも、人間は違うよね。なんでだろ、とっても不思議」
「人間だから、だと答えになってないかもだけど……でも、だから人間なんだと思うよ」
「それな! わはは」

 チサキは六発の弾丸を込め終えると、リボルバーを銃身に押し込んだ。そして、擦り切れたタイツの脚線美で、それを押し付けこすって回転させる。
 同時に、通路の向こうからマモノの絶叫が襲ってきた。

「さ、行っちゃって! ここはあたしが引き受けるよん? フィー!」
「でも」
「んー、もぉ……フィーはかわいいにゃあ? ま、終わったらキスの一つもくれりゃいいよん? んじゃ、そゆことで!」

 耐火扉を開いて、チサキは無理矢理その先へとトゥリフィリを押し込む。
 再び扉が閉ざされるまで、ずっと彼女は笑顔だった。
 その姿が消えるや、銃声と轟音、おぞましい咆哮(ほうこう)が響く。
 立ち尽くすトゥリフィリは、意を決して走り出した。
 すぐに上への非常階段が見えてくる。

「キス、ね……オデコかほっぺだなあ。だから、死なないでよね……チサキ!」

 カンカンと、剥き出しの金属音が反響する。
 どうやら非常階段には、マモノもドラゴンも今のところいないらしい。だが、無限に続くかに思われる四角い螺旋の連なりは、登る程にトゥリフィリの体力を奪ってゆく。
 永遠に続くかに思われる疾走の中で、改めてトゥリフィリは思い出す。
 チサキやキジトラ、そして無数の仲間たち……皆、この瞬間も戦っている。
 ならば、自分が彼等に(むく)いる方法は一つだった。
 覚悟を決めて決意を新たにした、その時……不意にドアが現れる。

「ついた、最上階っ! ――ッ!?」

 ドアを開けた瞬間、トゥリフィリを星の海が出迎えた。
 広がる宇宙の彼方、ねじれた東京タワーが続く眼下に地球が見えた。
 そして……トゥリフィリを異形の悪意が待ち受けていた。滅びゆく地球を睥睨(へいげい)する人竜は、ゆっくりとトゥリフィリに向かって振り向くのだった。

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